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DECO*27はなぜ「母性」にこだわるようになったのか

 DECO*27はボーカロイドの黎明期から活発に活動を続けている最古参ボカロPであることで知られている。初音ミクが情報社会の新たなムーブメントとして期待された頃から、「低迷期」を越えての再ブーム、そして2020年代の浸透・拡散に至るまで、今日までのボーカロイドの熱狂の背後にはいつも立役者の一人としてのDECO*27がいた。
 彼の作風は、基本的には「男性の愛を求める少女」としてのボーカロイド解釈に立脚している。そもそもボーカロイド自体が男性的欲望の救済装置的な役割を担ってきた面があり、DECO*27の作風はもろにこれを体現していると言えるだろう。例えるなら村上春樹や新海誠の男性的ナルシズム(弱い女性を所有する)に似たものを備えており、極めて女性差別的なものだ。従ってこれを批判するのは簡単かつ正しいのだけれど、もう一つ、彼の作品には「母性」という厄介な要素が存在し、フェミニズム的見地から一蹴することができない「ねじれ」のようなものを形成している。今回はそのことについて書いてみたいと思う。
 まず、初期から現在までの、DECO*27のボカロPとしての一貫した姿勢が伺える歌詞がある。2009年7月投稿の「愛言葉」である。

いつも僕の子供が
お世話になっているようで
聴いてくれたあなた方に
感謝、感謝。

 DECO*27は(消費者が)「いつもお世話になっている」初音ミクを「僕の子供」と表現している。この表現におけるポイントは二つある。一つは彼がミクを「成長する存在」として捉えていること、もう一つはミクを一種の「所有物」として捉えていることだ。初期のDECO*27は後者の感性に傾倒し、男性によって所有される存在としての少女として初音ミクに歌わせていた。
 このような、ボーカロイドをイノセントな少女として、そして男性的なものによる所有対象として解釈する作品は当時のボカロシーンの主流を占めていた。「メルト」(2007)を筆頭に、「ロミオとシンデレラ」「炉心融解」(2009)、「ワールズエンド・ダンスホール」「マトリョシカ」(2010)、「千本桜」(2011)、「脳漿炸裂ガール」(2012)といった作品などで、「少女が無条件に愛を求める」という内容の歌詞が反復された。DECO*27の初期の楽曲ー「モザイクロール」「弱虫モンブラン」といった作品にも、同様の女性差別的回路を確認することができる。
 しかし一方でこの時期、彼は「少女性」の対極にある「母性」もテーマの一つとして掲げていた。「母性」を備えた少女が、「モザイクロール」的な女性差別回路を決定的に挫折させる、という構造の作品が多く作られていたのだ。
 例えば「二足歩行」(2009)、「エゴママ」(2011)は、まさに「母性」が男性的なものを支配し、「男性による女性の所有」ごと呑み込んでしまうという内容を持つ作品だ。さらに「妄想税」(2013)では、税を納めることによって妄想を現実にするというモチーフを通して、ボカロの持つ女性差別回路、本質的な醜悪さと非現実性が炙り出される。その上、「税を納めれば妄想が叶う」というのは大嘘だというオチが付き、欲望を実現するには自分で努力するしかないというシビアな現実が突きつけられる。広い意味では「妄想税」にも、女性への所有欲を挫折させる存在としての人外的な「母性」が設定されていると言える。
 初期のDECO*27は、「少女性」への欲望と「母性」への欲望の間で引き裂かれていた、と結論付けられる。そして重要なのは「少女」と「母」というモチーフが、いずれもボーカロイドを人格のない「真っ白な存在」として読むことで成立していることだ。ボーカロイドの無人格を無垢さとして捉えると「少女性」の、崇高さとして捉えると「母性」のモチーフに辿り着くと言えるだろう。
 しかしボカロの「低迷期」を跨いだ2016年以降、彼は「母性」の主題を捨て去る。いや正確には、「母性」と「少女性」を対立させて「少女性」を肯定する作風に転向したのだ。
 ボカロ界の雪解けを象徴する曲となった「ゴーストルール」(2016)で考えてみよう。この作品はまず「モザイクロール」の流れを汲む「愛を求める少女の歌」だ。しかしその構造は少し異なっていて、「足りない僕を愛してよ EGO-MAMAが僕を育てたの」という歌詞がある。ここでは「エゴママ」的な母性(安定した恋愛)を打ち破るために、少女が(男性に都合のよい形で)愛を求める、というマチズモ温存のための強化された構造がある。「ヒバナ」(2017)も、この図式を純化したものとして理解することができる。
 そして「乙女解剖」(2019)は、「ゴーストルール」的な図式を暴力性の肯定に昇華させた、DECO*27の変態性が全開になっている作品である。主人公の少女が安定した恋愛を嫌っていることは「ゴーストルール」と共通しているが、そのために少女が無条件に愛を求めるだけでなく、「乙女解剖」というタイトルが象徴するように男性に傷つけられることをも望んでいるのだ。‥‥‥どう考えてもこれは男性のSな欲望を美化した以上のものではないように思えるのだけれど(素直にSMプレイがしたいと言え)、ともかく中期DECO*27は「母性」を「少女性」と対立するものとして描いていたわけだ。
 このような「少女性」への傾倒は、当時のボカロ界に対する一種のアレルギー反応と言えるだろう。2016年以降、「チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!」「脱法ロック」「シャルル」(2016)、「ロキ」(2018)、「ビターチョコデコレーション」(2019)といった、男性的欲望の反映が薄い作品、もしくは「男性性の慰撫としてのボカロ」に対する批判的要素を含んだ「砂の惑星」(2017)、「劣等上等」(2018)などが支持を集めた。フェミニズムへの配慮もあるかもしれないが、「少女性」への拘泥によって作風が束縛されてきた、ということへの新世代のクリエイターによる問題意識が大きかっただろう。
 この状況は2020年代になっても続いている。このような空気の中、ボカロ黎明期を知るクリエイターも無条件には「少女性」を描くことができなくなり、前時代的な「愛を求める少女」の図式を言葉遊びで補完するかいりきベアや、「母性」を「少女性」と対峙させて(逆張り的に)強化を図るDECO*27といったクリエイターを生んだ、というわけだ。
 だが、2023年現在のDECO*27はこの立場からも転向している。彼は今、「母性」と「少女性」を両方とも備えた少女を多く描いている。
 転換点となったのは「ヴァンパイア」(2021)だ。この作品は、基本的には「ゴーストルール」の、「「母性」を嫌って男性にすがる少女」の図式を引き継いでいる。しかし、男性への求愛だけでなく、(セックスの上で)男性を支配するSな欲望も歌われる本作は、少し異なった位置づけが必要となる。つまり、ヴァンパイアミクは「愛情をください」と「悪い子だね」という歌詞を両立できる、「少女性」と「母性」を併せ持つ少女として描かれているのだ。
 この「母性と少女性の融合」の系譜は、「アニマル」(2021)、「サラマンダー」(2022)、「ラビットホール」(2023)といった作品を通して描かれ、洗練されていった。「パラサイト」(2022)、「ボルテッカー」(2023)など「ゴーストルール」的な少女像を引き継いでいる作品も少なくないが、とりあえずしょうもないなりに「少女性」と「母性」を接続する新しい試みをしていることは確かだろう。
 そして2023年、ミクの誕生日である8月31日に発表された「ブループラネット」は、後期DECO*27の「母性×少女性」追求の集大成として現れた。MVには老いた初音ミク(と思しき老婆)が登場し、水に覆われた世界(=ボカロ界)を探索する。そしてMV終盤、(「ブループラネット」が「回り出す」=ボカロ界が再興するのに伴って)老女だったミクは少女に若返る。そして、いつまでも「君が最上級のパートナー」であると——つまり初音ミクはいつまでも消費者たちのために歌い続けるのだと高らかに謳い上げるのだ。
 要するにこの歌でのミクは男性に所有されることを望んでいるわけで、この態度は一見、初期・中期のDECO*27らしい「少女性」を採るものに見える。しかしここでのミクは老いを経験した=「母性」を獲得した彼女が若返った存在に過ぎない。ミクの若返りは、まさに「母性」と「少女性」を併せ持つ存在としての新たなモデルの提示と言える。
 なぜ「母性」を織り込んだ少女を描く必要があったのか。なぜ「乙女解剖」的な「無垢な少女」のモチーフを捨てねばならなかったのか。それを解く鍵は、DECO*27はこんな発言に隠されている。

「現在に時間が近づけば近づくほど、主人公っぽい感じにしたいんですよね。『私は、いろいろな人の曲をたくさん歌ってきたシンガーだ』という自信が表れていたらいいなって。きっと、16年歌ってきたらそういうものが出てくると思うんですよね」
『別冊カドカワ 総力特集 初音ミク』KADOKAWA、2023年9月、42ページ

 ミクがボーカロイドとして開発されてから時が経っていくことを、ミク自身の成長である、と彼は捉えているわけだ。
 そう、DECO*27がかつてのようにミクを「無垢な少女」として、あるいは人外的な「母」として無邪気に捉えることができなくなったのには、ミクを「成長」する女性として捉える彼の感性が大きな原因としてある。初音ミクが産声を上げて間もなかった頃のDECO*27は、ミクを「無垢な少女」あるいは「崇高な母」として解釈し、自身の変態性に都合の良い造形をほどこすことができた。しかしミクが開発されてから時間が経った中期の時点ですでに、彼はボーカロイドに「無垢さ」や「崇高さ」を求めるのに無理があることに気付いていた。2016〜2019年にかけての作品は、その認識に対してアレルギー的に少女性を強化する試みとして位置付けられる。そして十年以上が経過し、多くの歌を歌ってきた実績を作った2020年代になって、彼は経験豊富であるミクを真っ白な存在として描くことにますます違和感を覚えていき、転向したのだろう。
 そこで彼が新しく導入したのが、百戦錬磨の経験(母性)を持つタフな「少女」というモデルだ。無垢な「少女」でもないが崇高な「母」でもない、中間の存在だ。10年以上のキャリアを積んで「成長」したミクに対応したモチーフだ。
 「ヴァンパイア」や「ラビットホール」において描かれる少女は、男性を(性的に)弄ぶバイタリティを持ちながら、あくまで男性の愛を求める。DECO*27は2020年代の初音ミクを、「母性」を持った「少女」として解釈し、描いたのだ。それは初期のDECO*27が別々にテーマとして掲げていた「母性」と「少女性」の融合でもあり、彼の十五年のキャリアの末の一つの到達点と言っていいだろう。
 このDECO*27の転向が物語っていることは何か。基本的に彼の書く歌詞は男性的な欲望を反映させたしょうもないものだ。しかしそこに初音ミクの成長を表象する「母性」を取り入れたことで、一応は彼は2020年代に対応した作品を作ることができている。
 従って、2020年代のボカロは、歴史を重ねてきた初音ミクや鏡音リンを、「経験を積んで達観した存在」、「人間以上人外未満の存在」に読み替えて作品を作っていくしかないのではないかと僕は思うのだ。最近のボカロシーンをざっと一覧してみれば、john「春嵐」やピノキオピー「神っぽいな」、Kanaria「酔いどれ知らず」などにこの「達観しているが人間臭い存在」のモチーフを認めることができる。
 一方、てにをはの「ヴィラン」やすりぃの「テレキャスタービーボーイ」「エゴロック」、あるいはAyaseの「ラストリゾート」「幽霊東京」のような、ボーカロイドを何者でもない存在、無垢な存在として解釈し、社会からのけ者にされる人間に重ね合わせて描いている作品は、「人間ではないまま歳を重ねてしまった」ボーカロイドの特性を上手く生かせておらず、別に強いてボーカロイドに歌わせる必要がないように思える。もちろん、ボカロでしか歌えないことしかテーマにしてはいけない理由などどこにもないし、社会不適合者というモチーフ自体が悪いわけでは決してない。しかしそういう場合でも「達観する存在」としてのボカロというモデルを導入することでより効果的に作品世界を演出できるはずだ。ともあれ、DECO*27の10年以上の活動から、ボーカロイドの「人間臭い母性」とでも言うべきモチーフを持ち帰るべきだというのが僕の結論である。

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