【日記】5/13-5/14

小林秀雄『近代絵画』

 セザンヌの描写が特に厚い。
 セザンヌは、曰く、印象主義の画家のように、光学という科学分析に分解されていく自然を書いたのではなく、「自然の方からやって来て、私に視覚を使わせるもの」、とでもいったようなものを描いていた。これは、小林秀雄の意見というより、ほとんどが、本人の発言の雰囲気をもってきたものだ。自分も読んだことがある。
 確かに、セザンヌの芸術論は、言葉としても熱く、創作する者を奮い立たせる何かがある。
 小林秀雄の手腕としては、このセザンヌの章の最後の方に、自分が一番美しいと思う絵をもってきて論じる、答えを長引かせることによって、自分がどこに重点を置いているのかを最後まで宙づりにする効果を生んだこと、だろうか。

 セザンヌは、肖像画をいくつか描いたが、モデルが少しでも動くことを許さなかった。モデルは、強い緊張に晒された。奥さんも例外ではなかった。動くと、「リンゴが動くか」と叱ったという。

例えば、一人の青年が椅子に腰かけている。彼は、セザンヌについても、絵画についても、モデルに坐るという事についても、何んの知識も関心も持っていない。ただ動くなと言われて、不様な恰好で、椅子に坐り、退屈し切っている。机の上に肱を置き、頬杖をついているのは、そうしていないとくたびれるからである。

『小林秀雄 全作品22 近代絵画』、「セザンヌ」新潮社、79-80

 こんな調子だったと。だが、セザンヌはモデルが「不様な恰好」をしていようが一向にかまわない。自然の中の本質をつかむように、人間の中の本質をつかむのだから、恰好や衣服、いな、動きや表情でさえも、余計なものだった、人間の奥深くに埋没している自然を取り出し、絵画にしたかのようだ、奥さんにしても例外ではなかった、奥さんは固有名をはぎ取られ、「匿名夫人」(小林秀雄の言い方)となった、秀雄が特に好ましいと思うのは二人のカルタをする男の絵で、云々……
 人間がもっとも静的に捉えられ、固有の雰囲気、時代の空気などすべてなくなった絵がいちばん素晴らしいとでもいった口調で言うので、なんだか自分の感覚からは、魅力的には映らなかった。

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