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ボードレール論 小林秀雄「近代絵画」徹底分析


第1章 ボードレール

「対象なり、主題なりを画家に提供したのは、その時代の常識や教養というものであった」この章の小林のテーマは、この一文にある。
本書においては「その時代」が意味するのは、2つある、中世と近代である。

さて、「近代絵画」といいながら、詩人のボードレールが、その入口になるというのが、いかにも小林秀雄らしい仕掛けになっている。
小林秀雄にとって、詩ー文学ー音楽ー絵画は、一列に並んだ、近代読解のための対象なのだ。
故に「悪の華」で文壇に近代を告げたボードレールこそ、この「近代絵画」の第1章にふさわしいのだ。

ボードレールが残した絵画に対する批評について、小林秀雄は言う。
「今日も生命ある所以は、彼の批評の裡に溢れた この絵画の近代性に関する予言的な洞察にある」

ではボードレールが指摘した「絵画の近代性に関する予言的な洞察」とはなにか。
それは絵画が、政治からも、宗教からも自立し、「絵画が絵画であれば足りるという明瞭な意識」だった。
中世から抜け出した画家が手に入れたものは、自分が描きたいものを描ける自由であり、「画家たちの純粋な感情や思想であり、それを絵画として成立させるだけの緻密な技術の集積」だったのだ。

この近代絵画の思想の自由性を理解するには、その前の時代の中世における、「思想の不自由性」を理解しなければならない。

この件については、自著「#百歳百冊」で試みた「超訳 ヨーロッパの歴史」の分析に詳しいので引用する。

「ヨーロッパの古代を打ち破ったのは、ゲルマン人である。彼らは「戦闘は面白いものである」と考えた。
文字を持たない戦闘部族・ゲルマン人が、ローマ帝国に侵入した理由は単純に「略奪」だった。しかし彼らがヨーロッパを支配し、そのまま居残った。
このためゲルマン人を取り込まざる得なくなったローマ教会は、中世において暴力に対する見解を古代ローマ帝国とは変えざる得なかった。
戦好きなゲルマン人の小国家政府は、大同一致することを嫌い、常に周辺諸国と戦争せざる得ない。
そして教会がゲルマン人政府の支持を得たければ、政府が繰り広げる戦争を正しいものと認めなければならない。そこで教会はゲルマン人の戦士を「騎士」と呼び、騎士に暴力の正当な理由を与えた。「異教徒への排斥」である。教会は非キリスト教徒と戦う者に特免状を与えたのだ。
もう一つ中世の特徴がある。この時代のキリスト教神学は、ギリシャ・ローマ学問のいいとこ取りで作り上げられていた。教会の人間だけが、この歪めた知性を秘匿していた。そのため古代の開放的な学問が、キリスト教会の中で秘匿され、逆に民衆は知性を失っていった。日本の識字率に対して、西洋の識字率が著しく劣ったのはこのことに起因する。
つまり中世の本質とは、異教徒狩りという暴力装置が横行していることが証明する様に、専横的なキリスト教と暴力的なゲルマン人の醜い融合の実態なのだ」
https://note.com/q_do/n/n02f94f715e47?magazine_key=m07ef02f58364

中世とはそんな時代だ。ヨーロッパについて憧憬と畏怖を持つだけの日本人は、こうした「野蛮なヨーロッパの本質」を見失う。
そこには「暗黒の中世」と呼ばれるだけの意味があるのだ。

故に中世の時代に画家に与えられた課題と、近代のそれは明確に違う。中世には中世の時代の課題があったというのが、小林の考察である。
中世絵画とは、宗教普及のための伝道書に他ならない。それは歴史書であり、教科書であり、信仰の表現そのものだった。
特に識字率の低い時代、絵画が宗教の伝道に果たした役割は大きかった。
こういう絵画に求められていた中世における役割を知らないと、中世と近代の時代性の違いは理解はできない。

小林も以下のように書く。

聖書は、動かすことの出来ぬ歴史的事実の記録であった。そういう秩序や事実をできるだけ忠実に現すのが画家の任務だった。
中世期の画家たちにおいて、「存在の秩序を、視覚のイリュージョンに変えるという様な事は思いも及ばなかった事だろう」
アンドレ・ロートは「印象主義の技法は、近代の曙に現れた遠近法という技法と根本では同じ性質のものだ」と書いている。
そこにあるのは中世期における聖書の世界を伝えるという「常識との闘い」だった。
近代における「作家の自律性を取り戻す運動」を理解するためには、それ以前の「拘束」を知らねばならない。

時代順に小林の分析を追ってみよう。

ウッチェロによって遠近法が発明された後、「画家達は歴史家が言葉で現すところを、画家は色で現して来たが、
今や、事実の秩序は歴史家にまかす、画家は事実の外観だけで、既に充分に複雑である、という事になった」

その後、15世紀の遠近法と19世紀の印象派までの間、画家にとって、在るが儘の形は遠近法で解決しながら、色の件は置き去りにされた。
だがその中途半端はやり方のおかげで、その時代の常識人の意識は釣り合っていた。

その均衡は、ロマン派芸術のおかげで破られた。

(遠近法と印象派は)両方とも審美上の懐疑主義を現わしている。
要するに、そのふたつは、在るが儘を描かず、見えるが儘を描こうが為の技法なのだ。
遠近法は、物の形を、印象派は色彩にその懐疑主義のコンセプトを応用したのだ。

さて、こうして、遠近法と印象派によって中世絵画は、形と色の側面から打ち破られた。
そこにボードレールの近代絵画論が登場する。
人生を支配する、伝統や約束の拘束、従来の価値観に拘束された感情や思想の誘惑。
それらを全て疑い、破壊する姿勢こそ、ボードレールは求めていた。

ボードレールの章は、大芸術と小芸術に費やされる。まずは大芸術であるドラクロアからはじめよう。
実はボードレールは、音楽ではワグネルを書き、その後、絵画でドラクロア論を残した。
同じく 小林秀雄は、文学分析で本居宣長等を残した後に、音楽でモオツァルト論を表し、その後この「近代絵画」に挑戦した。
この二人が行った手法である「既知の領域をつなげて未知の領域へ探索する様」こそ、哲学的な探究の本質なのだと思う。


ボードレールはドラクロアの色彩の魔術についていう。
「ドラクロアの絵を遠くから見てみるといい。何を描いているか解らぬくらい離れて絵を見て給え。
忽ちドラクロアの色彩の魔術というものが諸君の前に明らかになるだろう」
「この主題と無関係な色彩の調和こそ、画家の思想の精髄なのである」
そして、ドラクロアの精緻に整頓されたパレットを指して、これらの様々な色彩の一つ一つのいわば感情値を操作する技法は、音楽や数学と同類と指摘する。

ドラクロアは、彼の画家的技量により、「歴史」をモデルにして「人間の本質的な野蛮」を表現しようとした。
名画「シオの虐殺」は、「人類の愚かさと無意味さ」を、色彩の全財産を使って、表現すべく闘った成果である、
ボードレールはこうして歴史に挑戦したドラクロアを「ロマン派芸術」として評価して、その偉業を「大芸術」とした。
ドラクロアはその後、あの「民衆を導く自由の女神」を描き、大芸術を活用して、まさに歴史を動かすことになる。

ただしボードレールは、ロマン派芸術が、芸術家の社会的孤立と反逆との上にしか咲かない花である事をはっきり意識していた。
まさに、「対象なり、主題なりを画家に提供したのは、その時代の常識や教養というものであった」なのだ

ボードレールは、この歴史に挑んだドラクロワを「大芸術」に対して、マネを「小芸術」として、対峙させた。
特別にマネ論こそ著していないが、散文詩「紐」はマネへの賛辞であり、クールベとマネを印象派に先立つ視覚の革新者とし、
そのリアリズムを「大胆で無私な現実感」と評価した。
マネの「絵のリアリズム」に、ボードレールは自身が展開する「詩のリアリズム」と同じ性質を見出していたのだ。
それこそが彼のいう「裸の心が、裸の対象に出会う点」なのだ。
ボードレールとマネの二人は、作家の自律性を取り戻す運動の共鳴者であったのだ。

小林は書く
「詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や約束によって形作られている、
凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える」

これこそが近代における「作家の自律性を取り戻す運動」の本質であったのだ。

ボードレールはマネの小芸術に「意識的な色感の組織による徹底した官能性」を見た。
「絵は外にある主題の価値を指さない、額縁の中にある 色の魅惑の組織自体を指す」
マネの額縁の中で高鳴る管弦楽に、近代が勝ち取るべきリアリズムを感じたのである。

マネは、時代を打ち破るために様々な挑戦をしている。「草上の昼食」における真昼間のヌードの騒動や、「オランピア」の発表でも大きな批判を浴びた。
ボードレールとマネには深い友好関係があり、マネが『オランピア』で、大きな非難を浴びた際にも
「あなたがここにいて下さればと思います。罵詈雑言が雨あられと降り注ぎ、僕はかつてこんな素晴らしい目に遭わされたことはありません」と書いている。

「対象なり、主題なりを画家に提供したのは、その時代の常識や教養というものであった」
まさに、この言葉において、詩人ボードレールの心の友が、マネであった。
リアリズムという「裸の心が、裸の対象に出会う点」で、心を通じ合わせた同時代人なのだ。

印象派の先達は、こうして批判の中でも、同時代の詩人や音楽家とともに、中世の殻を打ち破っていったのだ。

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