障害者が、不公平感を感じてはいけないのか。
目に見える障害と、目には見えない、障害。
同じ”障害”のようで、それに対する反応や世間の目は違っている気がする。
小さい頃、親に「車いすに乗っている人を見たら、何かお手伝いできることはありますかって、声をかけるんだよ」と教えられた。
「目の見えない人の為に、点字ブロックの上を歩かないこと」と、小学生の時に先生から教わった。
「急に腕を引っ張ったりすることも、恐怖や不快感を煽るからやめましょう」と言われた。
でも、耳の不自由な人に対して、こうするといい、と聞いたことは何もなくて、果たしてどうするのだろう?と思ったけれど、そういう方は文字で会話もできるしいいのだろうか。と自分で納得する理由を考えた。
だけど、どうだろう。日々、常に音が聞こえないことからくる恐怖感、不自由さは、目の見えない方、足の不自由な方と、そう変わるのだろうか。
なのに、耳が不自由というのは、外から見て「見えない障害」だから、身の回りに点字があれば大丈夫、ということなのだろうか。
精神疾患は、「目に見えない障害」だ。
だけど、目に見える身体的な障害以上に、差別が多く、理解が少なく、配慮されることもほとんどない。
この前、とある映画を借りて見た。身体障害を持つ方が、そうでない方と結ばれる話だった。
テレビでもよくあるが、身体障害を持つ方の家族や友達、恋人、結婚相手などは、その理解や意思決定をよく美談にされる。
そういう人は、心が広くて優しい。素敵な相手だとされる。
だけど、精神疾患を抱える人の周りにいる人たちは、どうだろう。
家族は噂の的になり、友達は一緒にいるだけで変な目で見られたり、責めるような態度を取られたり、恋人は、そもそもなかなかできない、または病気や障害を打ち明けると、途端に態度を変えられたり、ネットに「うつ病の彼女と別れたい」などと投稿されたり。
けれどそれだって、その人たちだけの意識の問題ではなく、「精神疾患を抱えている人と一緒にいるだけで変な目で見られたりすること」自体、その風潮が問題であり、大きな原因なのではないかと思う。
私は薬の副作用で、一時期、貧乏ゆすりが酷く、また外で癇癪を起したりしたことがあった。
自分でも辛くて苦しくて、常にこみ上げる説明のつかない気分の波がおとずれる状態が堪らなかった。
どんなに我慢しようと心がけてもうだうだ言ってしまって、耐えてるつもりなのに唸ってしまって、誰か助けてと、心の底から思った。
だけど、そこに向けられるのは、「可哀想」という同情の目ではなく、好奇の目、異質なものを見るような軽蔑の目、そして同伴者に対する非難のまなざし。
身体の障害を抱えている人はよく、「同情されるのが嫌だ」「手伝ってあげましょうか?などという言い方で、上から言われてるような感じが嫌だ」というのを聞いたことがある。
綺麗ごとを言えば、本来比べることではなく、皆等しい、同じ人間でってことなんだろうけど、自分はできた人間ではないので、そうは思えない。
言い方が上から目線であろうと、手伝いを申し出てくれたり、気遣ってくれるのは、こちらからするととても幸せなことだと思う。
果たして、電車の中で汗を大量にかき、手も足も震えていて目もうつろで、ドアが開く度ホームに逃げ込むような人や、パニックになると癇癪を起してしまう人間、本来聞こえないはずの「声」に苦しめられて耳をふさぎながら、またはうるさい、やめろと唸りながら歩く人間に、同じように手を差し伸べてくれる人はどのくらいいるのだろうか。
同じ「障害者」と呼ばれる人間であっても、身体だけの障害の方は、きっと健常者と同じように、そのような精神疾患を抱える人間を見たら、同じような目で見るのではないだろうか。
だけど、同じように苦しい。同じように辛い。
生きていくにあたって、自分にとってとてもつらい「障害物」がそこにあるから「障害」なのに、ただでさえ苦しいのに、差別や軽蔑によって、さらに、生きることが苦しい。
私は、障害で長時間同じ場所にじっとしていることができない。
けれどそれをどんなに説明しても、ご想像の通り、列に並んでいないと順番に入れてもらえず、途中で耐えられなくなって抜け出すと元の場所に戻ることはできず、また一から並び直さなくてはならない。
その点、目に見える障害を持った方への配慮は、現在、わりと行き届いているように思える。
だから私は、どうしても、「目に見える障害」を持つ方に不公平感を抱いてしまう。
目に見える障害に対しての配慮が手厚いバリアフリーな環境にも、正直嫉妬してしまう。
障害者は、不公平だと、嘆いてはいけないのだろうか。
本やテレビで言われるように、常に頑張らないといけないのだろうか。
健常者と同じように、さぼったりしてはいけないのだろうか。
障害に関する諸々を、美談として取り上げられることに、不快感や嫌悪感を感じてはいけないのだろうか。
必ずしも、障害を克服して、健常者に近づかないといけないのだろうか。
(ちなみに、この「克服」という言葉が、私は一番嫌いだ。)
障害を持つ者だけが一方的に頑張って、今の社会に慣らさないといけない、という風潮じゃなくて、
どんな人であろうと、みんなにとって生きやすい社会じゃ、駄目ですか。
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