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【小説】本は待っていてくれる(1257字)

場所は変わっていたが、公民館図書館は昔と同じ匂いがした。古い本の匂いだ。その匂いをかぐと、自分自身が小さい頃に逆戻りした気がした。

一人の女性が絵本の棚の前に立っている。真剣な顔で、本を選んでいた。彼は本を探し始めた。題名は覚えている。『かえっておいで』だ。作者名を忘れてしまった。家の外へ出た子熊が森の中で迷子になって、怖い思いをするという内容だった。結末では、自分の家に戻ることができる。

夕焼けを背に立つお母さん熊の絵が、印象に残っていた。絵本の棚をずっと見ていっても、探している本は見つからなかった。入り口に戻って、そこに置いてある端末を使って調べた。絵本の題名を打ち込むと、作者の名前が分かった。こやすゆみこだ。棚の「こ」の作者の所へ行って、調べると今度は見つかった。

古くなって、背の部分をテープで補修した跡が残っていた。子供の時に自分が読んでいた本だろうか。彼は本をじっと見つめたが、それは分からなかった。でも、絵本が待っていてくれたという気持ちが、胸の中に広がった。

椅子に座って、絵本を最初から読み始めた。読み聞かせしてくれた母の声が、耳の底で響いた。忘れていたのだが、最初は母が読み聞かせしてくれたのだった。何度から読んでもらった後で、自分で読むようになった。

夕焼けが出てくる終わり近くのページになると、子供の頃と同じようにほっとした気持ちになる。森の中で迷ってしまった子熊を、母熊は待っていてくれたのだ。本をもとの場所に戻し、外に出た。暗くなり始めていて、冷たい風が吹いていた。

いずれ図書館のカードを作り、本を借りられるようにしようと思った。会社を辞めたので、これまでのように自由に本を買うことができない。彼は都会で働いていたのだが、母親が認知症になったので実家に帰ってきた。結婚はしていないので、会社を辞めるのに迷いはなかった。

妹からの電話で認知症のことを知った。徘徊することもあり、警察の厄介になったことがあるそうだ。実家でひさしぶりに会った母は、やつれた顔ををしていた。

「私のために、ごめんね」
彼を顔を見た母は、そう言って泣き出した。医師の話では、物忘れが始まっているとのことだった。一緒に生活してみると、彼もそのことに気づいた。
自分の財布を仕舞った場所が分からなくなり、パニック状態になる。朝食を食べたことを忘れることさえあった。

図書館を出てしばらく歩くと、丘の上に出た。遠くの空に夕焼けが見えた。濃い茜色が空一面に広がっている。あの絵本で見た夕焼けと似た色をしていると思った。夕焼けを見ていると、自分が故郷に帰ってきたという実感が湧いた。一番星の瞬きも見えた。

思春期に父と衝突して、家を飛び出すことがあった。そんな時に母親はいつも家の前で、彼を待っていた。ばつの悪い顔で、帰ってくると母親は、

「お腹すいたでしょ。ごはんできているわよ」と声をかけてくれた。近いうちにまた図書館に行って、あの絵本を借りることにしよう。母親に見せたら、何というだろうか。あの絵本のことを覚えていて欲しいと思った。



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