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荷台の上の永遠

うちの車は、ホンダT360という、かなり古い軽トラックだ。

1963年、それまでバイクを作っていたホンダが初めて世に送り出した四輪駆動車で、水色の車体の、カエルの目のような丸いヘッドライトの真ん中のボンネットに、白抜きでホンダの「H」の文字が踊る。

まだ春先なのに25度を超える炎天下、エアコンなんて便利なものなど当然の如く付いていないT360のアクセルを踏んで、僕は隣の市へと向かっていた。まだ3月だからとあらかじめ助手席に置いておいたものの、毛布の出番はない。

後ろにくっついた荷台には、本棚と机と椅子を載せている。今年の4月から、実家を離れるのだ。

といっても、さほど遠くに引っ越すわけではない。最高時速45キロのT360でも、20分ほどで辿り着く距離のところだ。業者を呼ぶと金がかかるし、どうせ引っ越し先に持ち込む家具も限られているから、自分で運んだほうが安上がりで早いと判断したためである。

僕がこれから住むのは、市の外れにある一軒家だ。もともとは亡くなったじいちゃんばあちゃんが住んでいて、空き家だったものを譲り受けた。

ここもまた昭和の建築の古いものだが、中はひととおり改装されていて、今は姉ちゃんとその旦那が、ときどき別荘がわりに使っている。

ヒイヒイ言いながら荷台から下ろした机をひとりで運んでいると、伸びたTシャツを着た姉ちゃんが、アイスバーを片手に、玄関口へと顔を出した。

「うっす!引っ越し、おつかれ!」

「ちょ、姉ちゃん、ちょっとは手伝ってや!」

僕の文句を無視して、姉ちゃんは靴を履いてガレージへと出て行った。

「まだ動くんやなー、これ。あらよっと!」

そう言って、姉ちゃんはT360の荷台に飛び乗った。昔から身体のこなしが機敏だが、今でもこんな芸当ができるんだな。さらに姉ちゃんは、こんな突拍子もないことを言い出す。

「なー、後でドライブしようや。ウチ、荷台乗るから」

「うちの敷地内ちゃうねんから、荷台とか乗ったら怒られるて」

うちは農家であり、それなりに広い敷地を持っていた。昔は親の運転するT360の荷台に乗って、敷地内をトロトロと走るのがとても楽しみだった。

過去形なのは、少し前に農家を畳み、敷地がもうすぐマンションに変わることが決まっているからだ。

両親はもう高齢だし、姉ちゃんはすでに結婚しているし、僕は僕で将来の夢がある。家族全員で決めたことだ。後悔はない。

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引っ越し作業を終えた頃には、もう日が暮れていた。

「あのキショイ車、おまえの?」

ビールを煽りながら僕を睨みつける金髪のこの男こそが、姉ちゃんの旦那である。結婚式で会って以来だが、どうも苦手だ。家の中でもシルバーアクセサリーをこれ見よがしにジャラジャラと付けている。姉ちゃんはこんなチャラい野郎のどこに惚れたのだろう。

とはいえ、この家に住むからには、なんとか上手くやっていかなければならない。アルコールで自分を誤魔化して、なんとか話を合わせた。

「じゃあ俺、帰るわ。あ、おまえ、俺の車、見てけよ!」

旦那に襟首を捕まれて出て行ったら、T360を威嚇するかのように、横に黒いシャコタンのスポーツセダンが停まっていた。

「おまえ、この車、知ってる?知らんやろなー、おまえは」

旦那は酒臭い息を吹きかけて車内に乗り込み、下品なマフラー音を響かせて走り去って行った。どうか、貴重な日産Y32グロリアグランツーリスモを飲酒運転で鉄屑に変えるのだけはやめてほしいと心で思った。

確かあの旦那は、僕より年下のはずだ。完全にナメられている悔しさに両手を強く握りしめていると、後ろから姉ちゃんの声がした。

「なー、ドライブせえへん?さっき言うてたやつ」

「いや、俺、もうだいぶ飲んどるし……」

「ウチは飲んでへんから。ウチの運転で」

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夜になると程よく涼しく、エアコンのないT360でもなかなか快適に過ごせる。市街地からは遠いので、周囲はネオンも少ない。静かな道路が続く中で、姉ちゃんは唐突に言った。

「浮気されてんねん、ウチ」

なんの感情も篭っていない、抑揚のない言い方だった。昔の姉ちゃんなら、男にフラれたなら、のたうちまわって暴れていたはずだ。なのに姉ちゃんは、びっくりするくらい無表情だった。

「今夜も、ホンマは女の家に行っとんねん。もう、だいぶ前からそうやねん」

僕はボソッと、

「あんなやつ……」

とだけ呟いたが、それに続ける言葉が見つからなくて、しばらく黙っていた。僕はあいつは嫌いだ。でも、あいつは姉ちゃんが愛した人だ。姉ちゃんが辛いときは、僕も辛い。

特に目的があるドライブではないはずだったが、何を思ったのか、姉ちゃんがT360を停めたのは、うちの畑の手前だった。

もう夜の11時。朝型生活の両親はとっくに寝ているだろう。エンジンを停めた姉ちゃんは、僕をじっと見た。

「なー、一緒に荷台に乗ろうや!」

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子供のころは広く思えたT360の荷台だが、大人がふたり寝転ぶとなると、少しせせこましい。誰もいない静かな畑の上には月が浮かんでいた。

過去のことをいっぱい話した。夏の農作業は虫が多くて大変だったこと。畑のイチゴを勝手に食べて母さんに怒られたこと。T360が動かなくなってとうとう寿命かと思ったら父さんが5分で直したこと。

未来のこともいっぱい話した。これから通う大学院では心理学を勉強したいこと。臨床心理士になりたいこと。

ここにいれば、時間が永遠に止まるような気がした。本当は錆びだらけのボディも、本当は塗装が剥げている荷台も、今は夜の闇に隠れて見えない。

話し疲れて寝息を立て始めた姉ちゃんに、助手席から持ってきた毛布を当てがった。僕は、星が流れるたびに願い事をした。

この夜が終わりませんように。

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