ロードスター
アスカ姉ちゃんの家のガレージには、車が2台あった。
片方は初代のトヨタシエンタで、街中でよく見かけるごくふつうのミニバン。そしてもう片方は、ユーノスロードスターという、昔のスポーツカーだ。
赤い2人乗りのオープンカーで、ヘッドライトが閉じたり開いたりする仕組みになっている。
「リトラって言うんだよ」
ボールを投げながら教えてくれたアスカ姉ちゃんの顔は、得意気だった。
「僕、大人になったら絶対これに乗る!」
いつもより強めにボールを投げて、僕は自信満々に言った。
家が隣どうしのアスカ姉ちゃんと僕は、小学校に上がっても中学校に上がっても、よく一緒に遊んでいた。
お前ら付き合っているのかと友達にからかわれたこともあったけれど、姉と弟みたいなものだと思っていたし、物心ついた頃からずっと一緒だったので、特に気にしたこともなかった。
ふたりとも車が好きなままで、街を走る車の名前を言い合ったり、珍しい車が置いてあるスポットを報告し合ったり、モーターショーに行ったりした。
そういう日が、いつまでも続く気がした。
「くぅちゃん、今度の日曜、時間ある?」
くぅちゃんというのは僕の下の名前だ。空と書いてくうと読む。小さい頃からずっとそうだけど、もう高校生なのにちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしいと最近は思うようになってきた。
「あるけど……、あっ、もしかして……」
「イエス!」
アスカ姉ちゃんが右手に掲げたものは間違いなく、運転免許証と書かれた顔写真つきのカードだった。
「今度、ロードスターに乗せたげようと思うんだ」
もちろん僕は胸を高鳴らせた。
「行く!絶対行く!」
桜が満開の道に沿って、ロードスターは走った。ハンドルを握るアスカ姉ちゃんはサングラスをかけていて、今までよりも大人っぽく見えてカッコ良かった。
「このロードスターって、お父さんのだよね?」
「そう。若い頃、女にモテたくて買ったんだって」
「で、モテたの?」
「モテたよ、うちのお母さんにだけ」
「ああ」
「うちのお父さんのことはともかく、くぅちゃんはどうなの?彼女できた?」
「いや、いない」
「ふーん」
アスカ姉ちゃんはどうなの?と訊き返そうと思ったけど、なぜか口には出せなかった。
車というのは速い。1時間ほど走ると、いつの間にか、隣の県に入っていた。
「お花見でもしようか」
大きな緑地公園のコインパーキングに車を置いて、近くのコンビニでフランクフルトを買って、食べながら歩いた。
「こういうの、久しぶりだね」
両手を広げて、アスカ姉ちゃんが嬉しそうに言った。その後にぼそりと、こう付け加えた。
「……もうこういうこと、ないかも」
それからはしばらくは、桜が咲き誇る公園内をぐるりと回って、昔の思い出話とか、志望の大学はどこにするのかとか、スバルのアイサイトが凄いとか、話す内容は変わったものの、小さい頃となんら変わらないやりとりをした。
「今日はマジ楽しかった!ありがとう」
お礼を告げると、アスカ姉ちゃんは急に深刻そうな顔をした。
「どうしたの?」
「あのね……。黙っとくほうがいいかなとも思ったけど、くぅちゃんには言うね……」
「うん。あ、ああ。彼氏ができたとか?そりゃそうだよね。アスカ姉ちゃん、優しいし可愛いし」
できるだけ動揺を悟られないように、わざと明るい調子で返した。アスカ姉ちゃんは誉めると照れて、いつもなら顔を赤くして「んなわけないでしょ」と言うはずなのに、今日は無表情だった。
「そうなんだけど、彼氏だけじゃなくて……」
「なに?」
「赤ちゃんがいるんだ。お腹に」
「えっ」
「もう全部言うね。それで、その彼氏と、結婚するんだ」
本当は「おめでとう」と言うべきだったのだろうけど、なぜかどうしても言えなかった。
やがて僕も大人になって、晴れて運転免許証を手に入れた。
自動車学校を卒業する時にもらった初心者マークをロードスターに貼って、運転席に乗り込んだ。
残念ながら、このロードスターは僕のものではない。レンタカーショップを必死に調べ回って探してきたものだ。
なにせ旧い車なので、なかなか取り扱っているところがなかった。アスカ姉ちゃんと同じ赤が良かったけれど、黒しか在庫がないと言われた。
あれから何度めかの春が来た。アスカ姉ちゃんは結婚と同時にどこかに引っ越して、ガレージにはシエンタしかいなくなった。
あの緑地公園の名前だけは覚えていたので、とりあえずそこを目指して、カーナビも付いていない、スマホの充電もできないロードスターを、あちこち迷いながら走らせた。
なんとか辿り着き、駐車場に入ると、赤いロードスターを見つけた。まさか、と一瞬だけ思ったけれど、かなり遠い県のナンバープレートだったので、きっと全く別の人のものだ。それでも隣に停めて、陽の当たりが心地好い車内から、満開の桜を見上げた。
ラジオから流れる天気予報によると、来週は雨が続き、今年の桜を見ることができるのはこの週末が最後らしい。
隣のロードスターの持ち主が帰って来た。どうやら20代半ばくらいの若いカップルのようだ。女性のお腹が膨らんでいる。
心のなかで「おめでとう」と呟いて、どこかでサングラスでも買おうかなと、アクセルを踏み込んだ。
車内には時々、桜の花弁が落ちる。
サウナはたのしい。