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コーヒーは大人になってから

「ぎゃああああああああっ!」

泣き出したアカネを抱っこして宥めすかしたつもりが、さらに激しく泣いてしまった。

まあ無理もない。数ヶ月に一度しか会わないおにいさん……いや、認めたくはないが、この子にとってはおじさんなのか。まだおじさんと呼ばれるのは率直にイヤだな。

サザエさんのカツオだって、関係上ではタラちゃんの叔父だが、タラちゃんはカツオをおじさんとは呼ばない。そういえばタラちゃんの本名はタラコだったっけ?タラオだったような気もする。

などとくだらないことを考えているうちに、アカネはすやすやと寝息を立てた。昼寝へと移行するスピードがとてつもない。のび太が出した0.93秒という世界記録に、いつか追いつけるかもしれない。

アカネを布団の上に置いて、普段は来ることのない部屋の中を、ぼんやりと眺めた。

ここは僕の家ではなく、兄の家だ。兄……、むかしは兄ちゃんと呼んだり、テツヤと呼び捨てにしていたが、今はなんとなく、兄としか呼ばない。

別に仲が悪くなったわけでも、喧嘩をしたわけでもない。高校生のあたりから、ただなんとなく疎遠になった。

小さい頃は一緒にポケモンを集めたり、デュエルマスターズに興じたり、河原でセミの抜け殻を粉々に砕く悪趣味な遊びをしたり、ジャンプを読んだり、ヤングジャンプを買って水着のお姉さんのグラビアを見て興奮した記憶がある。

むかしの兄はどちらかといえばやんちゃなほうだったが、今の兄がどうなのかはよく知らない。

パチンコや競馬はするのか。アイドルに興味はあるのか。カラオケで何を歌うのか。ソシャゲはするのか。現金支払い派なのかキャッシュレス派なのか。

つい数日前に交換したLINEアカウントが最新の兄の情報だが、アイコンは生まれたての頃のアカネの写真になっている。むかしの兄ならアニメのキャラクターにしていたと思う。

「どうだった?」

「うん、まあ、大丈夫」

「そうか」

アカネを抱き上げながら、兄は素っ気なく答えた。どうも兄に会うこと自体がひさしぶりすぎて、思春期の息子と母親の会話のようにぎこちない。

「……おまえは、どうなんだ?」

「……なにが?」

「アレだよ。なんか、いい相手の子、見つかってないのか」

「いや……」

あんまり触れられたくない話題を振られたので、さらにぎこちなくなる。

僕には、結婚願望というものがまるでない。

アカネを少し世話して、子供と一緒に過ごすというのも大変だが悪くはないな、とは思った。

だけど、たまに顔を合わせるからこそ、可愛さだけが残って憎さが0倍のままいられるのだろう。この生き物だっていつかは大人になって、インターネット上で暴言を喚き散らす怪物になるかもしれないのだし。

などという気持ちはおくびにも出さず、ちょっと一服してくると言ってベランダに出た。

本当に一服するわけではない。タバコは数年前に値上げしたときに辞めた。どっちにしろ、吸える場所がどんどん減っていったので辞めるつもりだった。

マンションの3階のベランダというのは中途半端な眺めだ。近所の一軒家の屋根しか見えないし、その向こうには高層マンションが聳え立っているせいで視界が遮られている。辛うじて雲だけが見える。

ガラガラと戸が開いて、なんだか懐かしいニコチン臭さと一緒に、兄が背後にやってきた。

「1本、吸うか?」

僕に赤いマルボロの箱を突きつけて、兄は言った。

もともとアイスブラストを吸っていた僕には、12ミリの赤マルは強すぎるのだが、なんとなく従って、受け取った。禁煙しているのだが、この1本だけは特別ということで、カウントしない方向で考えよう。

「ゲホッ」

肺にニコチンを入れた瞬間、思いっきり噎せた。強く吸いすぎた。タバコの初心者がよくやるように、露骨に噎せた。それを見て、兄がフフッと笑う。

「カズヤはいいな。いつまでもバカで」

「…………なんだよ、それ」

「親になるとさ、バカだけじゃいられなくなるんだよ」

「……ふうん」

「タバコ、また値上げしたんだよな」

「ふうん。オレは、ちょっと前に辞めたから」

「え?辞めたのか?じゃあ、1本やるって言われても断れよ」

「いや、なんとなく、断る気にならなかったし」 

「これで、禁煙失敗だな」

「いや、1本だけじゃん」

「1本でも、吸ってることには変わりない。立派なヤニカス仲間だ」

「くっそ……」

ほれ、とテーブルに置かれた缶コーヒーのラベルには、1年ほど前から爆発的な人気を見せているアニメのイラストが描かれていた。

兄は変わってしまったようで、実際はあまり変わっていないのかもしれない。

無糖という文字を確認すると、僕はゆっくりと喉にカフェインを流し込んだ。

むかしは缶コーヒーなんて一気飲みするのが当たり前だったし、ラベルに表示されている砂糖の量を確認したりなんかしなかった。

そして、ゆっくりと流れるコーヒーは美味い。なぜ今まで、あんなに急いで飲んでいたのだろう。

ふつうはカフェインを摂ると目が覚めるものだが、今日はどういうわけだか眠くなった。

「れ……、れ……、れ!れ!」

うとうとして油断した隙をついて、いつの間にか再び起き出したアカネが、僕から缶をもぎ取ろうとしていた。

「ダメ!コーヒーは大人になってから!」

だって、大人にならないと、本当のコーヒーの美味さはわからないもんな。

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