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殺人鬼はお好き?ー映画「羊たちの沈黙」考ー

「ちょっと聞いてよ」

「何?」

「すごい映画観た」

「何の映画?」

「『羊たちの沈黙』」

「観たことなかったの?」

「なかった」

「うっそ」

「すごかった」

「すごいのは知ってる。僕もビデオテープが擦り切れるくらい観たからね」

「え、そんな時代から観てたの?」

「そうだよ。三倍とかで一本のテープに三本くらい映画を録画してた時代から観てるよ」

「うっわ。懐かし」

「で、感想聞かせてよ。どんくらいすごかった?」

「えっとね、わたし感想言うの苦手なんだよね。うーんとね、まずね。主人公のクラリスが抜群に可愛い。ちょっと野暮ったい感じの緑のコート着てるとことか、伸びた髪をそのまんま切っただけって感じの癖毛を隠しきれてないとことか、なのに整った顔立ちと肌の美しさのおかげで、やっぱり美人で、それなのに、他の映画みたいに主演女優でございます的な服もスタイルもバッチリ決まってなくて、その脆そうな若い女性が猟奇殺人の捜査に加わるところが不穏で怖い」

「うん」

「それからレクター博士のキャラクター。これを超える怪人っていないでしょ。自宅に訪れた国勢調査員を殺してその肝臓をワインのつまみに食べたなんてことを微笑みながらクラリスに話すんだよ? あとさ、あの脱獄の場面。看守たちを襲って血の海と化した独房のなかでテープから流れるバッハの『ゴルドベルク変奏曲』に聴き入ってるし、しかもすぐ逃げればいいのに、わざわざ死体にいたずらして芸術品っぽく宙釣りにするとか、普通しないでしょ。死体の一部を食ったり、いじったり、余計なことしすぎ。何ていうか、すばらしい変態だよね」

「そうだね」

「あとクラリスって、モテてるのに全然気づいてないってとこも面白いよね。さすがにレクターを収監してる刑務所長から口説かれたときは上手にかわしてたけど、蛾を解剖する研究者の人とか、上司のクロフォード、そしてレクター」

「なるほどね」

「これ続編いろいろあるよね。次どれ観たらいいの?」

「その前にもう少し丁寧にこの作品を観るともっと面白いよ」

「そうね。ああ何回でも観れそう」

「これってグロテスクなシーンがてんこ盛りで、しかもよく出来てるからホラーやサスペンスの名作扱いされてるけど、ジェンダーとか変身欲求とか色んな要素が盛り込まれてるから深いんだよね」

「どういうこと?」

「まずさ、この映画の冒頭覚えてる?」

「森のなかをクラリスが走ってるよね。物々しいオープニング曲で、クラリスが誰かを追ってるのか誰かに追いかけられてるのかわからないところが怖い」

「そう、その次は?」

「確か上司のクロフォードに呼ばれてFBIの建物に入る」

「どんなふうにクロフォードの部屋まで行くか覚えてる?」

「え、どんなだったっけ?」

「エレベーターに乗るんだよ。なかには男ばっかり。ごつい男たちの肩にも届かない身長のクラリスがポツンといるんだよね」

「ふむふむ」

「あと死体解剖の場面覚えてる?」

「川底から発見された大柄の女性の?」

「そう。あそこでもFBIが仕切るから地元警察はお引き取りをってクラリスが言うと、警察官たちは無言で出ていくでしょ?」

「うん。思い出した」

「あと印象的なのは、初めてレクターに面会するため、クラリスが他の収容者の独房の前を通りかかるときに言われる言葉があるよね」

「『アソコの匂いがする』だっけ」

「そう。で、レクターとの面会を終えてもう一回その前を通るよね」

「あぁ、あの場面か」

「そう。マスターベーションした囚人が精液をクラリスに投げつけるよね」

「そうそう。最悪」

「性差を描いてるんだ」

「そういうことね。だからカッコイイ男性俳優が主人公ではなくて、男社会に逆行するような女性を主人公にすることでこの映画の怖さが成立しているわけね」

「しかもそれだけじゃない。連続殺人犯ビルの性的傾向は?」

「体は男だけど女になりたい」

「そうなんだ。当時のアメリカにおいてはゲイやレズビアンが現在よりもマイノリティだったからね」

「声を上げずらかった」

「そうかもしれない。だからといって、この映画がこうした性的嗜好の人たちが犯罪に走る懸念があると言っているわけではない。実際、この映画が公開されたあと、抗議デモが勃発したんだ」

「うわあ。大変」

「制作陣はそういう意図はないと断言したけどね。実際、監督のジョナサン・デミはこの映画のあと『フィラデルフィア』を撮ったんだ」

「エイズを発症したゲイの男性の話だよね。差別と偏見に立ち向かう映画。アカデミー賞とらなかった?」

「うん。とった。でもこの『羊たちの沈黙』もアカデミー賞五つもとったんだよ」

「えっ。すごい」

「それはさておき、もう一つこのジェンダーの要素がある」

「まだあるの?」

「この映画はグロさ満載ってさっき言ったけど、人体破壊の場面があるよね」

「さっき言ったレクターが脱獄するときに作った宙釣り芸術死体のこと?」

「そう。これは映画制作のドキュメンタリーで語られていたことだけど、イギリスの画家フランシス・ベーコンの作風を模倣してるんだって」

「誰? 『知識は力なり』の人?」

「同姓同名だけど、それは哲学者の方。こっちのベーコンは画家で、作風はまあ正気を疑うようなものばかりだね。部屋の中央に千切れた人体が転がってたり、人間なのか牛なのか分からないけど解体されてぶら下がった肉が薄暗い背景のなかに浮かんでたり」

「こわそう」

「でも観てると不思議なカタルシスを感じて僕は好きなんだ。自画像もあるんだけど、人間の顔じゃないもんね。完成した顔をわざわざねじったように仕上げてるんだ。自虐的傾向も感じられる」

「それと『羊たちの沈黙』がどうつながるの?」

「ベーコン自身、ゲイで生涯悩み続けた人なんだ」

「へえ」

「二十世紀の人ではあるんだけど、彼の時代もまだゲイを社会が受け入れがたい頃だったんだね。結局自殺しちゃうしね」

「そうなんだ」

「人体破壊って言葉をさっき出したけど、破壊の対極にあるものは何だろう?」

「完成? 安定とか?」

「なるほど。そうとも言えるね。僕の場合は「再生」だと『羊たちの沈黙』に関しては考えた。既存の姿を破壊して別の自分に変身する。ビルは蛾を飼ってるでしょ?」

「あの気味の悪いやつでしょ」

「蛾は幼虫から変身するよね」

「ビルは蛾に、男から女に変身する自分を投影していたと?」

「そうだと思う」

「じゃあ、レクターにも変身願望があったの?」

「それは正直よく分からない。彼はとても頭がいい。知能指数も桁違いで、捕まったのが奇跡みたいなものだ。常識的な枠組みで彼を考えようとするとこっちも気が狂ってしまうようなキャラクターの強さがある」

「むむ。危険な香りがする」

「この映画のタイトルは『羊たちの沈黙』だよね」

「うん」

「羊がキーワードなんだ」

「羊って、あれでしょ。警察官だった父を撃たれて親を失った十歳のクラリスが羊農家に預けられたっていう過去でしょ?」

「そう。それをレクターに話すよね。ある夜明け前に子羊の悲鳴を聞いて目覚めたクラリスが目にしたのは羊が殺されている場面だったと暗示する」

「ああ、そうだった。それで子羊を逃がそうとするけどなかなか逃げなくて、一頭だけ抱きかかえて逃げたした」

「でも捕まって怒った牧場主に施設に入れられる」

「それが奇妙なトラウマとなって彼女の心に残っている、だったっけ?」

「そう。羊というのは旧約聖書において生贄の意味を持つんだ」

「生贄?」

「うん」

「クラリスがその話をした直後に、レクターは脱走するよね」

「うん」

「あの宙釣りにされた看守の死体ってまるで生贄を捧げるような格好だったよね」

「うん」

「クラリスのトラウマを解くためにあの看守を生贄にしたと?」

「もしかしたらね。レクターの考えは読めないけど、クラリスを好きであることは間違いないようだから」

「何だかすごく物騒な映画に出会ってしまった気がする。闇が深いよね」

「僕はこの映画の音楽も好きなんだ」

「音楽がとにかく不気味よね」

「そう。クラシカルなんだ。オーケストラ編成の音楽に作曲されている」

「作曲家が書いたの?」

「もちろん。ハワード・ショアっていうカナダ人。映画音楽専門の作曲家で、この人が音楽を担当した映画を見てごらん。名作、怪作だらけ」

「うわ。デビット・クローネンバーグとかデビット・フィンチャーとか怖い映画ばっかりじゃん。え、『ロード・オブ・ザ・リング』もこの人の音楽だったの?」

「知ってる映画ばっかりでしょ」

「うん。また観返したくなる」

「ちなみにこの『羊たちの沈黙』の撮影監督は日系アメリカ人のタク・フジモト」

「カメラワークも怖いよね。じりじりと対象に寄っていって、見たくないものを目にしてしまいそうな間合いとか」

「『サイン』っていう映画があるんだけど、これもタク・フジモトが撮影監督していて、これも抜群に映像が上手い。ある日突然人類が正体不明の何かに侵略されていくんだけど、その侵略者の姿を極力見せないんだ。見えそうで見えない。それが一番の恐怖なんだね。しかもこれ、作品としてかなりよく出来てて、伏線が何重にも仕掛けられてて、神学要素があって知的探求もできるし、サスペンスとしても秀逸の作品」

「掘れば掘るほど『羊たちの沈黙』はなんでも出てくるね。そしたら続編は何から観たらいい?」

「それはやめた方がいい」

「え? どうして」

「もし観るなら、これの続編として観るんじゃなくて、全く別物として観ないと、がっかりするよ。続編というのは一作目の追体験を求めて視聴者は挑むんだけど、『羊たちの沈黙』の雰囲気が味わえるのは『レッド・ドラゴン』くらいだと思う。これは出演した俳優や監督が超一流の人だらけでそれがうまくいった例。だけど、同じく超一流のキャストで臨んだ『ハンニバル』は撃沈。他にも『ハンニバルライジング』とかあるけど、結局『羊たちの沈黙』の完成度には及ばないんだ。もしこの作品を追体験したかったら原作を読んだらいいよ」

「トマス・ハリスだっけ?」

「そう。映画はかなり端折ってるけど、原作は各登場人物の描写がより細かくて、そのドラマが事件の水面下で影響しあうんだ」

「おもしろそう」

「もうちょっとこの映画の話してもいい?」

「まだあるの?」

「トマス・ハリス原作の『レッド・ドラゴン』は実は以前にも映画化されているんだ」

「え? 『羊たちの沈黙』の前に?」

「そう。ところが、これがつまんな過ぎて日本では未公開。『羊たちの沈黙』シリーズが出始めてようやくセルDVDで復活したけど、これを監督したのがのちに大物監督となるマイケル・マン。ハードボイルドな映画を撮らせたらもう最高。『ヒート』は特に有名だよ」

「そんなネタまで潜んでいるのね。恐ろしい映画だわ」

「それからね」

「いや、もういいよ。じゅうぶん聞いた。ありがとう」

「えっ、さいごまで喋らせてよ」

「いや、ちょっとね。お腹いっぱいなの。情報量が多すぎ。処理しきれない。だからまた今度でいいよ」

「ああそう? わかった」

「もうちょい、色々観てレベルアップしたらまた来るわ」

「了解、またね」

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