分かってないってことを分からなきゃ
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「自分って結構分かってる方なのかもしれないぞ」
“調子乗り”の自覚がある僕はこんな風に思うことがよくあります。
何かをやってみた時に思っていたよりも上手く出来た時、初めてやってみることが案外よく出来た時、自分の立てた仮説に基づいてやってみたらバッチリ成果が出た時etc・・・。
そんなタイミングで冒頭のようなことを思ってしまいます。
そして、そんなことを思った少し後に__時々は即座に__そんな風に調子に乗ってしまった自分を激しく後悔するような出来事に直面してこんな風に思うんです。
「嗚呼、自分てヤツはなんて何もわかっていなかったんだ!何度もこんな経験してるのにまた同じようなことを・・・。今度こそ痛いくらい思い知らされたよ・・・」と。
そんなことをかれこれ数えきれないくらい繰り返してきてもいまだにまだ同じようなことを味わって生きています。
それでもまた“なにか”があれば調子に乗って「自分、わかってるし出来まっせ!」となりますし「自分てヤツぁどうしてこんなにダメなんだ・・・」ともなるわけです。
こんな風に両極端なところを行ったり来たりしながら、と言うか、行ったり来たりしているからこそバランスを取ることができているのかもしれないなぁ、なんて思うこともあったりします。
そんな風に前向きに考えることもできるわけですが、それでもよく考えてみれば“調子乗り”の状態でいるよりも、「自分が如何に何も知らなくてわかっていなくて出来ていないのか」ということを客観的に観察することができている方が自分にとっては“好ましい状態”なんだろうと思うんです。
そんな“無知の知”の状態を自分のニュートラル状態に設定することができれば、“調子乗り”状態の時のように大きな反動としての“恥ずかしさ”とか“情けなさ”とか“虚しさ”みたいなモノががやってくるのを防ぎつつ「役に立つこと」に取り組めるのかもしれないなぁ、なんて思っています。
それに、よく考えてみれば“調子乗り”状態になる直前は、「なぜか、思っていたよりも上手く出来た」とか「なぜか、初めてやってみることが案外よく出来」とか「自分の立てた仮説に基づいてやってみたらバッチリ成果が出た」という“成果”が出ている時なわけですが、こういう成果を出す直前には“調子乗り”だったことはなかった。
つまり、「成果を出せるのは“調子乗り”ではなかった時」という決まり事みたいなものが存在していたということかもしれません。
そう考えると、「成果を求める時には努めて謙虚に“無知の知”を」ということが僕には言えるのかもしれません。
いやー、こんな謙虚なことを言えちゃうんだから、もしかしたら自分って本当はとっても“わかってる”のかもしれないなぁ。
・・・あっ。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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