何度でも言う、日本は侵略戦争などしていない!

正月のテレビ討論番組を見ていて情けなくなった。しょせんお笑い芸人でしかないウーマン村本は仕方がないにしても、田原総一朗氏をはじめ居並ぶ識者の多くが基本的な歴史さえ知らないように見えたからだ。なかでも残念だったのが、田原総一朗氏の「日本は日中戦争、満州事変と侵略戦争を行った」という発言だ。

肝心の知識人がそういう間違った認識だからウーマン村本のような情弱のお花畑が生まれるのだ。国民が正しい歴史を知る機会がないから、あのようなトンでも発言が出てくるのだ。

ここで声を大にして言わせてもらうが、日本は侵略戦争などしていない。そのような見方は東京裁判がでっちあげたねつ造歴史であり、敗戦国日本が戦勝国に押し付けられたえん罪によるものである。以下、田原氏がその例に挙げた日中戦争と満州事変を中心に事実関係をひもといていってみよう。まず日中戦争である。

日中戦争の発端とされるのは盧溝橋事件である。そこにおける謎の発砲事件を機に日中戦争が始まったというのが現在の通説だ。ではその謎の発砲事件はいったい誰の仕業だったのか?

話せば長くなるので、結論からいおう。あれは中国共産党の仕業であった。なぜそういえるのか? まず中国共産党北方局書記だった劉少奇自身がそう告白している。また毛沢東ら共産党指導部の重鎮もそれをほのめかしている。さらに長征直後で壊滅寸前にあった中国共産党がこれを機に息を吹き返したという事実がそれを裏付ける状況証拠ともなっている。

こういうと「なし崩し的に戦線を拡大させ、上海事変を引き起こしたのは日本だ!」と反論する人が必ず出てくる。しかし、盧溝橋事件後に現地停戦協定が結ばれたにもかかわらず、それを無視して、大紅門事件、廊坊事件、広安門事件、通州事件、大山事件と何度も繰り返し日本側を挑発し続けていたのは中国側である。

しかも第二次上海事変も最初に攻撃したのは残念ながら日本軍ではない。国民党である。宣戦布告もなしに日本人居留民が多く住む上海郊外に国民党軍が突然砲撃を加えてきたのがこの第二次上海事変の発端だ。

日本軍はこうした中国側による一連の条約違反と挑発行動をやめさせるため国際法の範囲内で反撃しただけである。それがなぜ日本による侵略戦争と非難されなければならないのか?

こういうと、「じゃあ満州事変はどうなんだ? あれは間違いなく日本による侵略行動だろ?」と目を剥く人もいる。

しかし、満州事変の直接の原因をつくったのも中国側である。もっと具体的にいえば張学良政権による排日運動である。当時、満州では日本人をターゲットにした排日運動が激化していたが、その裏で糸を引いていたのはその当時満州を実質的に取り仕切っていた張学良政権だったのである。しかも排日運動といえば聞こえはいいが、実際には殺人や暴力をふくむ過激なもので実質的なテロ活動であった。戦後、中東での軍事行動を正当化したアメリカのひそみにならえば低強度紛争といってもよいものであった。

そもそも張学良政権というが実態は辛亥革命のどさくさにまぎれ、満州を不法占拠していた武装グループである。満州事変はそうした匪賊グループから満州を本来の主である満州族の手に取り戻した解放戦争であり、ある意味辛亥革命以来、満州人やモンゴル人によって繰り返し試みられてきた満蒙独立運動の完成形といえるものでもあった。

さらにいえば、満州事変はソ連の赤化政策から満州を防衛するための予防戦争でもあった。じつはその2年前にも満州は危機的な状況に陥っていた。ソ連と張学良政権との間に発生した中ソ紛争だ。一説によると当時、スターリンは北満州を奪取することも考えていたという。しかもこれに呼応した中国共産党は中国南部で暴動を引き起こし、国民党を背後から牽制した。

下手をするとこの時、中国全土が赤化していた可能性もある。当時の中国はそれほど不安定な情勢だったのである。幸い、そこまではいたらなかったものの、下手をするとあの当時、満州はソ連によって奪われてしまっていたかもしれないし、場合によっては中国全土が共産化していたかもしれないのだ。その意味で中ソ紛争はソ連による「失敗した満州事変」ともいえるものであった。

こうした不穏な状況のなか、政府とは名ばかりのやくざまがいの軍閥に任せていたら満州はソ連に取られてしまうーー。そうなる前に、と発動されたのが満州事変だった。あの当時、日本に残された道は満州国建国以外になかったのである。

このように先入観にとらわれず客観的にみていけば日中戦争(支那事変)も満州事変も日本による一方的な侵略戦争などとは到底いえないことがわかるであろう。若干のグレーゾーンをいいことに善悪を逆転させ、日本を悪玉に仕立てたのは戦後の東京裁判史観である。

ここまでいってもなお食い下がる人もいる。あの当時、日本軍が中国に軍を駐留させていたこと自体が侵略だ、などという人だ。だが、あれは義和団事件後に結ばれた辛丑条約に基づく正当な居留民保護活動である。治安維持能力を失った中国に代わり、各国が自ら自国民を守る必要に迫られてそうしたのだ。これは今でいう国連の平和維持活動と同じである。当時の中国は今のシリアやソマリア同然の失敗国家だったのだ。

さらに「放っておけばよかった。なぜかまう必要がある」という人もいるが、ここまでくるともはや無知以外の何ものでもない。国際政治は権力の空白を嫌う。権力の空白に乗じてソ連が中国全土を赤化してしまったら、日本は一体どうするつもりだったのか? 実際1929年の中ソ紛争では、その危険が極限まで高まった。万一が起こってからでは遅いのだ。

さらにまた中国の混乱は日本が清朝末に介入したのがそもそもの原因だとして非難する人もいる。たしかに辛亥革命を日本の民間人が支援したのは事実だ。しかし、ならば孫文は中国を混乱に陥れた稀代の極悪人として非難されるべきであろう。たしかに民度の低い中国に共和制などという身の丈に合わない服を着せようとしたのは混乱の一因であっただろうとは思うが‥。

あるいは日露戦争が清末の混乱の原因だとでもいうのだろうか?ならば日本はどうすればよかったのか? 満州、朝鮮半島が侵略されるのをただ傍観していればよかったのか? 次に侵略されるのは日本だったわけだが? そもそも明らかな侵略者であるロシアを非難せず、日本ばかりを責めるのはなぜなのか?

これは先の中ソ紛争に関してもそうである。1929年の中ソ紛争はまさしく日本による満州事変のひな形であった。そこにあったのは、満州事変同様、中国による権利侵害にキレたソ連が武力攻撃に踏み切ったという構図である。そしてこの中ソ紛争におけるソ連の行動も満州事変がそうであったように不戦条約違反の疑いの濃いものであった。しかし、日本の左翼は中ソ紛争時のソ連の行動には見ざる言わざるを決め込む一方で、満州事変における日本の行動だけを非難する。これは一体どういうわけなのか?

くどいようだがもうひとつ、どうしても言っておきたいことがある。ある国の戦闘行為を侵略戦争というためには、前提として被侵略国が主権を持つ統一国家である必要がある。侵略戦争と呼ぶからには、当然ながら侵略される対象が存在しなければならないからだ。その点、当時の中国が主権を持つ統一国家であったかどうかはきわめて疑わしい。

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