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15分間中国近現代史 中国共産党の発展と土地革命戦争

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている土地革命戦争編を抜粋したものです。


四・一二クーデターと南昌蜂起

蒋介石の四・一二クーデターを国民党内のブルジョア分子の裏切りととらえた共産党は、これによって「国民党」は逆に浄化され、真の革命政党に生まれ変わったとみなした。そこで自分たちこそ国民党の衣鉢を継ぐ資格があるとみた共産党は、8月1日、国民党革命委員会の名の下で、江西南昌で武装蜂起を敢行。左派の力を結集して国民革命を継続しようとした。蜂起には周恩来の他、葉挺、賀竜、朱徳ら中共党員率いる国民党軍3万が馳せ参じた。これは、中共が独自の軍隊をはじめて持った記念すべき日でもあったため、中国では現在この日を建軍節として祝っている。

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南昌暴動を指揮する周恩来

南昌暴動のさなかの8月7日、武漢では中共中央臨時拡大会議が開かれた。この会議では、四・一二クーデターによる失敗を「右翼日和見主義者」陳独秀の責任としてなすりつけ、その地位を剥奪した。かわりに実権を握った瞿秋白は、南昌蜂起に呼応して農村地帯でも秋の収穫期に合わせた秋収暴動を敢行、また各地に労働者・農民・兵士からなる「ソビエト政府」を樹立する方針を定めた。だが、この決定は当時の情勢をまったく無視した机上の方針にすぎず、各地で大きな犠牲を払う結果となってしまった。

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瞿秋白

南昌蜂起軍は広東目指して南下したものの、仙頭付近で敵の攻撃を受けて四散。その後、朱徳や彭湃に率いられた一部は農民運動の拠点海陸豊地区に到達し、そこで中国最初のソビエト政権「海陸豊ソビエト」を樹立したが、わずか三か月ほどで壊滅した。また12月11日には、蘇兆徴、葉挺らによって広州に広東コミューンが樹立されたが、わずか3日間で流血のなかに葬り去られた。

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澎湃

一方、農民反乱を起こして長沙を奪取する計画だった秋収暴動のほうも、内部から裏切りが出たこともあって、数日のうちに挫折してしまった。指揮をとっていた毛沢東は残軍1000名を率いて湖南・江西両省にまたがる井崗山へと逃れた。だが翌年4月には、海陸豊ソビエトから逃れてきた朱徳が残軍8000名余を率いて井崗山に合流。ふたりは両者の部隊を合わせ、ここに中国労農紅軍第四軍を結成した。

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井崗山で合流する毛沢東と朱徳

毛沢東は、紅軍に対して「三大規律・八項注意」と呼ばれる厳しい軍律を定め、それを徹底させた。それまで、中国では軍隊といえば、政府軍であろうと土匪軍であろうと、略奪、暴行は当たり前で、民衆からは人間のくずとみなされていたから、こうした規律正しい軍隊の出現は、人々にとってはひとつの驚きであった。そのため、この規律正しさこそが、外観こそ土匪軍とさほど変わらない紅軍が「真の革命軍」として中国民衆に認められ、全国にその勢力を伸ばすひとつの原動力になったともいわれている。

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三大規律・八項注意


ソビエト地区の拡大と李立三路線の失敗

革命の情勢は共産党側に再び有利となった。蒋介石軍による全国統一後、その「分け前」をめぐって配下の元軍閥が離反。再度、内乱状態となったからである(中原大戦)。そこで生じた政治的軍事的空白をついて共産党は、各地にソビエト地区を拡大していった。毛沢東・朱徳らの中央根拠地をはじめ、方志敏、賀竜らが湖南・湖北・江西方面に、また鄧小平が広西西南部に、という具合にそれぞれ占領地を拡大していった。かれらは農村から軍閥や地主の私兵を追い出したあと、地主や富農の土地を没収して貧農に分け与える土地革命を積極的に推進していった。そのため共産党は多くの民衆の支持を得、その支配区域を拡大することができたのであった。

そのころ、「左翼盲動主義者・一揆主義者」として批判され、モスクワに召喚された瞿秋白にかわって中共中央の実権を握ったのは李立三であった。李立三は、毛沢東の根拠地理論を「そんな戦術では、革命が勝利する前に、われわれはみな白髪の老人になってしまう」としりぞけ、あくまでマルクス・レーニン主義の教義に固執、都市暴動による権力奪取をめざした。おりしも中原大戦によって国内には軍事的空白が生じ、しかも世界中が大恐慌で混乱していた時期である。世界資本主義体制の矛盾の焦点となった中国は世界革命の起爆庫であるとみなした李立三は、1930年7月、いくつかの都市で暴動を引き起こし、ソビエト革命政権を樹立する方針を打ち出した。農村にあった毛沢東らはこの無謀な計画に反対であったが、李立三はこれを無視し、全軍に出動命令をくだした。

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李立三

しかし、もともと彼我の軍事力の差を無視した机上のプランである。結果は惨めな失敗に終わった。蜂起のなかで共産党側は多くの犠牲者を出したばかりか、その根拠地すらも失う始末だった。唯一の成果は彭徳懐の部隊が長沙を占領し、ソビエト政権を樹立したことだが、それもわずか7日間で崩壊させられてしまった。ただ毛沢東の率いる第一方面軍だけが、かろうじて全滅を免れたことはその後の中国革命の継続にとってひとつの救いだった。この第二次極左路線(李立三路線)は三か月で破綻し、李立三はコミンテルンによってモスクワへ召喚された。

その後、中共中央の指導に当たったのは、モスクワから送り込まれた陳紹禹(党名・王明)、秦邦憲(党名・博古)といった若手留学生グループであった。実権を握った王明らは、李立三派をトロツキストであるとして粛清するなど、以後、指導部内では熾烈な党内闘争が繰り返され、党組織は一時壊滅寸前にまで陥ったという。またこうした権力闘争の渦中で、毛沢東も危うく粛清されそうになったこともある。

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博古と王明(右)


1931年9月18日、満州事変が勃発し、国民党軍の包囲圧力が減じると中共は全国九つのソビエト区の代表を中央革命根拠地の中心江西瑞金に集め、第一回全国ソビエト代表大会を開催した。大会では、中華ソビエト共和国の樹立を宣言し、毛沢東が臨時主席に選出された。

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瑞金政府の議事堂

共産党討伐作戦

いつのまにか勢力を盛り返した共産党に恐れを抱いた蒋介石は北伐達成後、本格的な「共産軍討伐」(囲剿)作戦を開始した。1930年12月、蒋介石は10万の兵力を動員して第一次囲剿作戦を行った。これに対し、迎え撃つ中共側は兵力わずか4万。だが、毛沢東や朱徳らの巧妙なゲリラ戦法によって国民党軍はあえなく撃退された。翌年2月、国民党軍は20万の兵力をもって再び攻撃を開始した。が、それも惨敗に終わると、今度は蒋介石自身が30万の兵力を指揮して7月から第三次囲剿作戦に当たった。しかし、結果は同様だった。国民党軍は江西南部の山野をあちこちひっぱりまわされたあげく、結局、撃退されてしまった。ちょうどそのころ、東北で新たな事件が発生した。満州事変である。あわてた蒋介石は、急きょ、ソビエト区から軍を撤退。共産党討伐作戦はいったん中止の運びとなった。1932年5月、日本軍との間に上海停戦協定が結ばれると蒋介石は、盧山で会議を開き「安内攘外」政策を発表。まず内(共産党軍)を安んじてから、しかるのち外(日本軍)を攘うという方針を定めた。この方針にしたがって、6月から50万の兵力をもって再び囲剿作戦を開始した。

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