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臨死体験~Memento mori について考えてみる~

臨死体験のワークショップを受けてきた。昨年も受けたので今回で2回目だ。ワークショップの流れはざっくり言うとこのような感じ。

大切なモノ・思い出・人、現世でやりたいことをそれぞれ紙に5つずつ書き出す。(1つの項目につき、紙は1枚)
目の前に、自分の大切なモノなどが20枚並ぶ。しばし、眺める。
暫くして、ナレーションが始まる。このナレーションを目を瞑り、聞く。
このナレーションの主人公は自分という設定である。ナレーションは以下のような内容である。

季節は冬の終わりから春にかけて、仕事が多忙な中、胃に不快感を覚えつつも、特に気に留めずにいたが、しばらくしても不快感が消失しないので、病院に行くと癌がみつかり、、、というもので、手術、抗がん剤なども奏功せずに1年足らずで、その時を迎える。そのナレーションの途中で、何回かに分けて目の前の紙を丸めて、捨てさせられる。「では、ここで目の前の紙を2枚選んで捨てて下さい。」といった感じで。大切なものを選んで捨てさせられる。

最期の瞬間を迎える前に、大切な5人に向けて遺書を書き、最期の瞬間は目の前の残った紙を1枚ずつ捨てさせられる。最後の最後まで残った2枚の大切な、モノなのか、思い出なのか、人なのか、現世でやりたいことなのか、のどちらかを捨てさせられる瞬間はグッとくるものがある。そして、最後の1枚を捨てる。

深い呼吸を3度繰り返し、この世での役目を終える。最後の1枚を捨てる時よりも、最後の2枚から1枚を選ぶ時の方が込み上げるものがある。例えば、子どもが2人いる人だとすると、最後の2枚にその2人を残していた場合、どちらかを捨てなければならないのである。

死とはなんだろうか?死を思え(さすれば生が輝かん)とはどういうことだろうか?

誰もが死ぬにも関わらず、死を体験として語ることが出来る人は誰一人としていない。死は人生の終わりを告げるだけで、人生そのものには干渉をしない。ただ、死を思うことで、生の有限性に気づき、生の輪郭を認識することは出来るのかもしれない。

数字の「0(ゼロ)」に近い感覚だろうか。
「無い」という概念を認識することで、「在る(有る)」という概念が浮かび上がる。体系を体系たらしめる、意味の不在を否定する記号のようなものだろうか。

有史以来、「0(ゼロ)」の発見にも一定の時間を要したように、死(ぬということ)を体感覚として落とし込むことは容易ではないと思う。死を思うことは、生の有限性の残酷さに向き合うことなのだろう。死そのものが残酷なのではなく、死を伴う生が残酷なのだろう。

生の有限性が意味するものは、上記のワークショップで僕が経験したような優先順位のつけようもないものに優先順位をつけなければいけない、ということなのかもしれない。どちらを選んでも本当の正解ではないが、どちらかを必ず選ばなくてはいけない時がいつか来るのかもしれない。あらゆる残酷な空想に耐えておかなければならない。現実は突然、無慈悲になるものなのだから。そのように考えると、優先順位が容易につけられるようなものには、さっさと順位をつけて、大切なものに集中するのがよい。

僕が仮に、現在の日本人男性の平均寿命の年齢を迎える日に現世での役目を終えるとすると、残りの時間は15,021日だ。

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