吉増剛造 「出発」

ジーナ・ロロブリジダと結婚する夢は消えた
彼女はインポをきらうだろう
乾いた空
緑の海に
丸太を浮かべて
G・Ⅰブルースをうたうおとこ
ショーペンハウエルの黄色いたんぼ
に一休宗純の孤独の影をみるおとこ
ジッタカジッタカ鳴っている東京のゴミ箱よ
赤と白の玉の中に財布を見る緑の服の男たちよ
ピアノピアノピアノピアノ
雑草のように巨大な人間の音響よ
雑草のように微小な人間の姿よ
おまえは頭蓋の巨大な人間
おまえはカタワ
ヌルヌルした地球
そんな球体の上で
お前は腐ったタマゴ
銀河系宇宙の便所の中で
おまえは腐敗している
都会のカタスミで
おまえは腐敗している
母親は桃色のシーツをたたむ
おまえは腐敗している
頭脳のカタスミで宇宙がチカチカしている
おまえは腐敗している


これは吉増剛造の第一詩集「出発」の表題詩の冒頭部分である。
もし吉増剛造や現代詩を読まない方ならば「なんやこれ」と思うだろう。
特に二行目にインポという言葉をぶち込んできたりとか教科書に載っているような詩とはだいぶ毛色が違う。(余談だが私はこの部分を読むたびに吉増さんのお母様はこの詩を初めて読んだときどういう感情だったのだろう、、、と毎回考えてしまう)
でも、この疾走感、独特のリズム感はきっと感じていただけたのではないだろうか。私も最初に吉増剛造の詩を読んだときは詩としての意味は全く分からなかったが、なんかザーッと読んでしまったな、という印象であった。

私はどこかで「芸術作品を鑑賞するというのは自らの感受性を深めることだ」と主張する文を見たことがある。もしそれが正しいならば、吉増剛造を通した感受性の深め方の一つには「言葉の韻律」への感性を深めることは間違いなくある。
言われれば確かにそうだわ~という程度の事柄に価値や美しさを見出すこと、見方を変えればこんなにばかばかしくて独りよがりなことはないだろうが他人を理解し心の安寧を求めるうえでは大切なことだと思う。

以下、この詩の続きを書いてこの文を閉めようと思う。私がこの詩を好きな理由は人生の中で払拭できない、孤独な悲しさ、寂しさがその輪郭をあらわにして浮き彫りになっているように思えるからである。こう感じられるのも何十回も読んだ後のことでそれまでは良さも全然わからなかったから皆様もぜひ何回も読んでいただきたいな、、、と願うばかりである。


無生物の悲嘆の回復
宇宙は女ギツネの肛門にある
肛門の中に
ポツンと地球がある
腐敗したおとこよ
さあスコップをもって
ヒップの恋人を
山田時の仏頭を
日本銀行を
熱海の海を
ディラン・トーマスを
コンクリートでかためるのだ
おまえは腐敗している
おまえはころがる
実存の井戸の底へ
G・Ⅰブルースの里へ
便所の底の赤いじゅうたんへ
ナポリの地下水道におまえの愛が落ちていても
その愛が
タマゴタマゴタマゴ
といっても
おまえはころがる
ガラガラおりる
荒れ果てた楽園を
人間のいない
生命の世界を
おまえはころがる
おまえは腐敗している
ここでおまえは結核菌をコップに一杯飲む
おまえはたんぼのくそをたらふく食う
小便をたらふくのむ
走りながら寝るのだ
おまえは
オバケナス
や巨大なオッパイ
からどんどん離れる
離れるのだ
おまえは腐敗している
おまえは離れる

おまえは離れる
おまえの頭蓋に付着する思想
セロテープ状の思想
それから離れる
セロテープには
父が収税使に涙を見せる姿
火事に半狂乱に走る母の姿
おまえは腐敗している
耐えられなくなったおまえは
ついには
シリのポケットに頭蓋骨を入れてしまう
そして
背中を向けて
ころがる
走る
地球のはて
時間という美女
が立ち止まているところ
そこのぶあつい鉄の壁に
おまえはシリをぶつける
おまえのポケットはつぶれる
頭蓋骨がつぶれる
そして座るはずだ
その時から
おまえはメシを食わないだろう
その時
どんな光が
おまえの胃壁を照らすだろう
どんな光が
どんな永遠が近づくだろう
元素も細胞も無になったとき
おまえの存在する空間
そこには
どんな影が
怖れるな
おまえの場所を
おまえの魂のすみかを
おまえは空間に香気をみる
そして
愛の形をも見るだろう

人々はガードの下で乞食が笑っているのを見たことがあるだろう
ヘラヘラ笑うのを

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