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時は誰の手にもあるようでいて、誰の手にも残らない

著名な作品を目についたものから読んでいくのが最近のひそやかな目標で、そう言いながらも脇道寄り道、時には逆戻り。時間ばかりが過ぎていく。

図書館の児童文学書コーナーを横切ろうとしたときに、「そういえば読んだことがない」と手に取った「モモ」に感銘を受ける。

「時間泥棒から時間を取り戻す」くらいの認識しかなかった私に、このストーリーが壮大な問いを投げかけてくるのだ。

「さて。私は何のために生きているでしょうか」

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作者の根底にある価値観が、私のカチカチに固まりつつある固定観念をほぐす。

「社会的な地位を得ることが成功なのか」

「誰も持っていない高価なものを持つことが目標なのか」

「時間を節約して、多くのお金を稼ぐことが正解なのか」

それらを象徴する「灰色の男たち」が手を焼く少女モモは、そんなものに全く価値を見いださない。

孤児院から抜け出してきた浮浪児のモモは、古代ローマの名残のような円形劇場の遺跡に住み着いている。近所の人から食事を分けてもらい、遊びにくる子どもたちの話をじっくり聞いて、人に自信を持たせ、そこにある石ころや布を使って遊びを作り出させる。

時に高価なおもちゃを持ち込んだ子どもに対して感じるのは、「遊び方が決まっているものに何の価値がある?」かということ。着せ替え人形は服を増やさなければ楽しくないし、ラジコンは車を走らせる以外の役に立たない。転がっている棒切れの方が、毛布にもマントにも代わる布の方が、何倍もワクワクするのだ。

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例えば私はアップルウォッチを使い始めて、常に自分の心拍数だとか今日の歩数だとかを気にしている。「アップルウォッチの携帯用充電器を買わないと」と思った瞬間、「また、そのためだけにしか使えない道具を増やすのか」と感じるのだった。

私は何をどれだけ増やせば満足するのだろうか。

ニーズを細分化して、製品化することこそが目的だと思いがちだけど、それを繰り返すことで、自分の能力はどれほど削られているのだろう。

例えば子どもの頃、まだかすかに「小刀で鉛筆を削る」ことをした記憶がある。でも、我が子は鉛筆削りがなければ削ることができない。小刀があれば鉛筆だけではなくて色々なものを切ったり削ったりできるし、木片と段ボールとガムテープがあれば、どれほど素敵な遊び道具に変身するかわからない。

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時間を節約して、社会的な成功を得た人の心に何が残るのか。

いつも時計を気にして、次の予定と睨めっこして、秒単位で動くビジネスマンは幸せなのかどうか?

モモの世界では、大人気繁盛店を生み出した店主は、以前のように「1杯のお酒でカウンターを陣取る連中」を追い出してしまった。金払いの悪い彼らは悪なのか? そうだろうか?

そんな問答を繰り返しながら、最後にモモがたどり着くのは「一人きりじゃ、どれほど無限の時間があっても無意味だ」という答え。

彼女は奪われた時間も、仲間も、すべてを取り戻そうと勇気を奮い起こして最後の戦いに挑戦する。

本当は、目の前にいる身近な人との対話の繰り返しこそが宝物で、それを大切にすることが自分を守ることにつながる。

とても単純で、とても深い話。

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こういう本を子どもに読んで欲しい、といつも思う。

簡単な言葉を羅列しながら、世界の真髄のようなものを描き出すファンタジーほどワクワクしながら脳みそをこねくり回すものはない。

でも、「読んで」と言って渡したとして、素直にそれを読むとは到底思えない(毎週娘に「ピアノの練習して」と強い気持ちで立ち向かってきた私の行為は、全く相反している。やるわけがない)。

だから密やかに購入し、その辺にポイって置いておくのがいいと思っている。

○○○

例えば。

私の机にはパソコンとミシンが並んでいる。ミシンは趣味で、時間があくといつも何かを縫っている。その時々で個人的なトレンドがあって、今は自分のワンピース。少し前はスカート。その前はリバティプリント。一番最初は娘のための子供服。

ある時、娘が背後から現れてつぶやいた。

「ママ、もう私の服は作らないの? 私が着ないから」

娘は小学生になるとリバティの小花模様を敬遠するようになり、黒とか紫とかを使った、肩が出たりする10代の子が好むデザインを着たがるようになった。だからもう可愛いリバティプリントは買わないし、私が自分のために選ぶのはチェックアンドストライプのオリジナルのリネンだとか、大好きな洋裁コーディネーターのmoiponさんがテキスタイルメーカーとコラボして作った黒ドットのサテン風コットンとか、大人の服に使えそうな生地ばかりだ。

「そうだね、もう、ママが作った服は着ないでしょ」

そう答えると、娘は次にこう言った。

「ママ、私もミシンで何か縫いたい。巾着を作りたい」

あ、これだ。と、後から気がついた。

私は「自分が何かに夢中になっている姿」を見せるのが一番いいんだな。私はいつも何かを読んでいて、本を読むことは「生きていく上でナチュラル」だと思わせてきた。だから彼らはいつも暇になると文字を追っているし、適当に買ってきたものを片っぱしから読んでいく。

(だからスパイファミリーだとかの子どもも読んでいい漫画は紙で買う。自分だけが読むものは電子で買う)※私の概念では「漫画」は立派に本の一部である。

そこから生まれるコミュニケーションと会話の価値を思うと、目眩がするほどだ。

娘が自分で生地を選んで、一緒に大きさを決めて、カットして、縫って、紐を通した巾着の値段は計り知れない。そこを土台にした人生も。

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「それをじっと見つめようとすると、いなくなってしまうものは?」

モモが、「どこにもない家」でマイスター・ホラから問われた謎々の答えは、誰の手にもあって、誰も手に止めて置けないもの。

私たちは自由だけれど、誰かがいなくちゃ人生は始まらないし、退屈だし、でもたまには一人になりたい。その絶妙なバランスの上で生きているんだと思う。

カフェに行く時間も好き

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