十仏名

十佛名(じゅうぶつみょう)という短い経文がある。
かつて、三島の修行道場である龍澤寺(臨済宗)に置いてもらっていた時、わけも分からずに誦していたものの一つであった。

私は、お経なんていうものには、あまり重きを置いていない。
元々、禅宗では、声を揃えてお経を唱えるというような習慣はなかったのだということを聞いたことがある。それが鎌倉時代になって、元寇がやって来た時、心を一つにして国家安泰を祈念するために、大勢で唱えることが始まったというのである(そのことについて確証はないが)。禅宗というのは元来、今日のようには、あまり形式張ったものではなかったようなのだ。

ところが、毎朝こんなお経を誦していると、どうも無意識の深層に染み付いてしまうものであるらしい。以下、十佛名をご紹介してみる。

十佛名
清浄法身毘盧遮那仏(しんじんぱしんびるしゃのふ)
円満報身盧舎那仏(えんもんほうしんるしゃのふ)
千百億化身釈迦牟尼仏(せんばいかしんしきゃむにふ)
当来下生弥勒尊仏(とうらいあさんみるそんぶ)
十方三世一切諸仏(じほうさんしいしいしふ)
大聖文殊師利菩薩(だいしんぶんじすりぶさ)
大行普賢菩薩(だいあんふえんぶさ)
大悲觀世音菩薩(だいひかんしいんぶさ)
諸尊菩薩摩訶薩(しそんぶさもこさ)
摩訶般若波羅蜜(もこほじゃほろみ)

何やら難しい漢字が並び、その読み方もどことなくおかしい。
仏教の宗派によって、内容や読み方にも若干の差異があるようである。上は、あくまで臨済宗のものだが、それとて流派によっては、同じではないかも知れない。
読み方が変なのだが、読み慣れてしまうと、逆にこの読み方でなければしっくり来ない。
ここで、觀世音菩薩は、どうしても「かんしいんぶさ」でなければならぬのである。
十仏と言いながら、仏ではないもの(菩薩や名号)も含まれている。おかしなお経である。この十仏の名前を唱えることが、有難いのであろうか、ま、そう言うのなら、そうなのであろう、これが若かった頃の私の認識であった。

何年も経ってから、父の葬儀の時、お寺(曹洞宗であったが)の和尚さんが、お経をこの十佛名で締めくくった。何となく私も心の中で誦していたが、その時であった、この経文の意味が、私の中で炸裂したのである(勝手にそう思っただけなのだが)。

このお経の十仏というのは、他ならない、自分自身の本性のことなのだと。自己の内奥の本質を様々な形で表現しているのではないか。どこか別の世界に仏(ほとけ)を立てて、それを崇めているのではないはずだ。
それが第一の気付きであった。とは言え、何も自分が仏と同じ境地に至った訳ではない。
そうではない、ただ、本来的にそうであるはずなのだという理解である。そして誰もがそうなのである。

すぐさま第二の理解がやって来た。
これは同時に、一種の戒なのであって、十の行動指針を指し示しているように思えた。私なりに意訳して見ると次のようになる。

清浄法身毘盧遮那仏 法身を清浄に保とう
円満報身盧舎那仏 円満な生き方をしよう
千百億化身釈迦牟尼仏 いろいろな人の身になって考えよう
当来下生弥勒尊仏 人類の遠い未来をも見据えて
十方三世一切諸仏 過去現在未来のブッダたちとともに
大聖文殊師利菩薩 聖なる道を歩もう
大行普賢菩薩 口だけでなく実行で示そう
大悲觀世音菩薩 思いやりを持って
諸尊菩薩摩訶薩 全ての人々のために
摩訶般若波羅蜜 大いなる智慧を磨こう


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