小説は時をまとう

小説は時代を表すことがある。最近の作では「成瀬は天下をとりにいく」や「東京都同情塔」がそんな出会いだった。それで「成瀬」のメモが出てきたので、投稿に使おうと。


はじまり

ネットでつながり、島や村が強制的に開かれた。国民のほぼ全員で漱石と同じ悩みを持つ時代になった。

単独で、(浅い)社交をしなければならなくなった。協調性から社交性に切り替えなければ、心地よくいられなくなった。ただ単に挨拶の練習が重要になった。既存路線上ではこうなってしまう。

人間関係=情、で考えなければいけなくなった。個で自立しながらも、共通のもので横に広がっていくには?。


AIは合理的なものが得意だ。言語化の時代は影響を受けると思う。前言語的なことや感性的なことが上がってくる。思考内で有機的な反応をするような、以前の頭の使い方が、ひとまず現実的に感じられてくる。

記憶を外部に置くことはおそらく間違っていた。いや手を抜いて記憶をほとんどしないのはやり過ぎだが、そんな判断は各人に任されて、実情底が抜けてしまった。

社会に恒常性があるのなら、人間には、デジタルやウェブ化よりも、アナログな現実が戻ってくるのだろうと。


人間の多い大都市は母数の多さから、自分を壊してくれる人と出会えるのだろう。そしてその時代がこれまでの小説に流れていた。登場する地方に対して、「誰かここから出してくれ」という縁切り希望ばかりだった。

それを変えたのが、「成瀬は天下を取りにいく」(滋賀を生き生き暮らす人が出てくる)だったのではと思う。


外部がないとどうにもならず、自分を壊していける人が少ないことはつまり、子供を卒業しないで加齢だけする人を生産する社会に課題がある。好き嫌いで物事を切り分けて私は変わらない。問題環境を横滑りさせていくだけでは、社会に先がない。

村や島国根性を変えていくことから逃げてしまうなら、ガラパゴス化する産業界と同じだと思う。

縁を切って好みに走ると、世代連綿とした知を受け取らないと思う。地方の問題を考える時に、自分を変えないために地方を逃げ場にするようなひとの受け入れが進んでも、長い目で見れば問題がある。

時代が変わっていく時の小説の一つなのだと思う。

メモ終わり。


「成瀬」の続編が出て、買ってあるけれどまだ読めていない。「東京都同情塔」の2周目をゆっくり読んでいるからだ。

小説の感想のような、親しめる話を書けたらいいよなと思う。でも難しい。「東」で思ったのは、文系の基礎が挙動になっていない僕だとかが、言葉を公に出すのは考えものだなと思ったからだ。言葉のプロじゃないわけだから。そんな能力はないよなと、才能ある人たちの表現に触れるたびに思い知らされる。

ため息終わり。

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