「陰謀論はなぜ生まれるのか」 読んで思ったこと

大衆が脅威になってきている、その一部が見えてくる。


Qアノンとコミュニティブームが重なってみえた。目的を共有する友人ができるということが心的に大事だという部分だ。情報のシェアという時代がQアノンを産んだのではないだろうかと問いが浮かんだ。

10年代にスモールワールドネットワークだとかの感覚で、世界はつながり人々に知が行きわたり、人類は理性的になって飢餓や戦争がなくなっていくくらいに理想が示されたものだけど、全然中身はそうじゃなかった。よく考えれば当然、よいものだけが伝播するわけがない。そういった解説が10年くらい遅れてやってきているのだ。いやポジティブなというか、先走った理想がとんでもない誤算を産んでいたわけだ。ポジティブは不用心だ。

話を大きくしてしまうと、結果的に10年代のフリーミアムの感覚は、お金を取るわけではない0円の詐欺までも大きくした。信じてくれればいい、騙されることでOKな、無償の詐欺が拡大した。それで十分なのだ。フォロワーの多さなどが価値だからだ。フォロワーから金を騙し取れなくても別に構わない。

SNSでのインプレッション稼ぎにタグ付けが利用されるから、それで信仰的で刺さりのいいワードで効果的に数字を稼ぎ出せる。信仰的というのは、相手に、現状は違うのかと考えさせてどういうことかと周囲を探らせること。そうすることで妄想が最大値にまで行ったのがQアノンなのだろう。

シェアが生んだ。商業活動が宣伝道具を使いこなした。そういうことでこのめちゃくちゃな世界の状況になったのだろうなと思った。

こういうと大人から怒られるけども、セールスは相手を説得すればよいわけで、本当にそうかどうかではない。ダイエットの成功率の低さよ。

現実に対して慎重さがなくなると、今のような産業や政治のスキャンダルに現れてくる。例えば産業が政治家を説得すればよいわけで、口ではそうだけど庶民世界や将来までそうなわけではなく、そのうちに限界や矛盾を超えてしまう。「オレ」はそう思ったって、現実さんは言葉で説得できないのだ。

「仕事は生み出すもの」といった。これはかつての資本主義側の、共産主義側に対抗するドグマだったと思う。これの限界が見えているのだろう。


スモールワールドネットワークが生む想像力とは結局、Qアノンの議会襲撃という結果だった。経済活動の活性化を重視する資本主義で、人々が啓蒙され行動に移し社会を変えていくようだし、こういった挙動も当然だ。

10年代に語られた正しさや理想は全く違う結果を示した。特に事件後に、SNS内など個別に対策はされたが、テキスト以外の動画や画像によって、謎解きは継続されてしまう。

Qアノンは、不思議なものは不思議だねぇで着地できる人々の社会だったら違ったのかもしれない。

一般にもそうだけども、なんでだと思う?とWhyを問われ過ぎる。特にエリートになりたかったらトップからの問いWhy?に応え続けられなければならない。自分の意見を持ちなさいというグローバル化がこうさせたのではと思う。これは体制からの質問に答え続ける勝ち抜きが信用を持つ出世になって、新型の権威主義、階層社会を作っていると思う。そこと、そのアウトサイドとの世界が違いすぎる。

問われる、答えられるといったことが市民にまで要求され、不思議の理由を探ってしまうことを増しているのではと思う。陰謀論とかスピリチュアルとか、実際に指をさせるものではない、現実の楽しさとはちょっと違うような、脳内ホルモンが先行してそう見せているようなものに熱意がいってしまうのではないだろうか。それに対してのガードが無くなると。別のいい方をすると、現実のもっと先まで行きすぎるようになるのが、過度なWhy?なのではないか?


感情と情報を不用心に出会わせないこと。そういうのは必要だ。発信する側がそれをさせようとしてくるから。社会側が対策をすべきというのなら、メディア内の倫理を徹底できるかどうかだと思う。可能なのだろうか?

人間は人間に情報を与えすぎた。それで人間が狂いだした。もう限界を超えている。情報に対して不用心に受け入れるという姿勢がつくられすぎている。未確認なものを信用しすぎる。間口が広過ぎる。

多くの人は情報に対してのガードが開いてしまったから陰謀論に引っかかるのだろう。頭のよさは関係なく、理解の間口が広いとか、なにかタイミングがとか、打ちどころが悪いとか、その程度でなっていると思う。

例えばホラー映画を見て平気な人もいれば病気になる人もいる。こういった人の浸透や受け取りの違いを考えずに、今どきのコミュニケーション論は当たり前のような顔をしている。

それは通信技術に合わせた理屈で、人間を無視した理屈になっている。そんな状況ではそもそもまともな理屈が語れるわけがない。だけどこれが有効なうちは、やっている方はなにがまずいんだ、おかしいのはお前だと言い続けられる。

もっと影響力の強度を上げればもっと効果が出せるだろう。でももうとっくに中央的な人間の限度を超えているのだろう。情報で病気になる人を無視しているから、心が問題になっているのだ。

現人類、基本的に情報の受け取りが広過ぎる。情報に対して「そうなんだ」と疑いもせずに受け取る。イメージドラマや宣伝などで相当に慣らされている状態。頭がガバガバになっている。


大衆は、陰謀論側もウォーク側も同じで、現実の先にある真実に罹る可能性を備えていたからそうなったのだろう。電波にクラウド接続され、電波に私が動かされている状態だからだ。

ブランディングでも同じだし、セールストークやデザインで気に入ってもらうなどそういうことも同じだ。悪口を言ってしまうと結局、マーケティングは広い意味でのプロパガンダだと思う。その発信によって他人の選択を操作してしまうのだから。

もうそういうのが何十年も当たり前でやられていて、どんどん情報に対する用心が薄れていく。確かに他人や擬人の真似が上手くなっていくが、それはもう人類の限界なのだろう。届く情報の量が多すぎて、個人としての人間を殺していると思う。情報が適度に減れば、オリジナルなことやっちゃう人は増えるでしょう?


「理由」時代だから、陰謀論も盛んになるよなと納得いく。自分がしていい理由とか、他人にしていい理由とか、そういう権利思考はよくないなとも感じる。その社会では他者への図々しさが溢れ、そこで生き残るために断ることや助けないことに慣れすぎてしまう原因にもなる。

これのままで関係性だとか社会性だとか新説を語ったって枠が壊れているのだから、なんの役にも立たない。また他の情報と同じ、一過性のものでそのうちに企画倒れするだろうなと思い、なんの期待も湧かない。

Qアノンは自分たちが歴史の正しい方にいると信じているようだ。でも同時に、アメリカという国をくくってしまうと、自分たちが歴史の正しい側にいると考えているように見える。そこを外国から煙たがれているし、次世代の帝国主義だと思う。そこにデジタル世界が生まれて、現実の先にある気がする真現実と、宗教観の道徳的正義とが、2極化してしまったのだろう。陰謀論系とポリコレ系とだ。

個人でも、私は正しい側にいるという高位設定を持っている人がいる。それが現状を壊すという意味での進歩派。共和党支持者であっても、この挙動は同じだろう。

「Q信者は、不確実なことを嫌い、計画を信じて疑うことのないように求める人々」と書かれていた。でもQアノンもウォークもどちらにしても、「真実に目覚める(真実を信じる)」態度には変わりがない。覚醒者AとBとだ。

例えば気分が高揚するというだけで、個人の世界はパラレルに移動している。パラレルに移動するということは高揚するということだけではないけれど、高揚することで意識はパラレルに移動している。覚醒だけなら高揚でできる。


元から持っている自分は高位だという見下した傾向のせいで、陰謀論の世界かイデア世界かのどちらかと出会うことになり、傾倒していく。信じるのなら学問はいらない。Googleだけで済む。この状態で、コスモポリタン(にナルシスティックに憧れる人)ならウォークだった、というだけだろう。

Qの場合は、カルト的な扇動がどこかにありそうなところ、ウォークの場合はローマキリスト教世界的な帝国的正義という違いがあると思った。

Qアノンはカリスマ的指導者がよくわからないからカルトかどうかわからないというけれども、おそらくインターネット画面がカリスマ的指導者の位置にあるのだと思う。「画面」信者。情報にクラウド接続されること。日本の一般でも、テレビ番組とかコマーシャルとかそう情報を信じて人が動くのだから、良くはないけど見慣れた光景だ。


逆のようだけど、日本はたらればをいうことを馬鹿にしすぎてフォロワーを産んでいると思う。他人事を語るようなオーディエンスを産めない。当事者か傘下でなければ偽物扱いをしすぎる。逆に主要意見の傘下であれば、一段高位にいられるという状態があると思う。

何かを語れるほどしっかり掴んでいられるかというと、一部の人にしかそれはできないと思う。そしてそれによるフォロワー製造が、大衆を産んでいる。

フォロワーはなにを自分で考えることができるのだろう?本当はできるし、それなりにしている。だから枠の途切れた部分から部分的な想像を使って、相対主義の分断の世界の一部になるのだと思う。大衆が脅威になっている理由はこういったものではないかと思う。

SNSは双方向性が利点というのなら、いいねやコメントのやり取りのない関係には価値がないと言ってよい。影響力を持ちたいという権威主義が、そのような態度になっていくのだとしたら、新型の旧型人間、再モダン仕様だ。権威主義を更新しようとしている。


個人発信だけでなく、そもそもで発信業:ギョーカイを自由の権利として過度に保護することよりも、倫理的な問題を考えることも取り入れていかなければならないと思う。自由と倫理の間にあるかどうか。

バランスが狂っているからだ。いや単純に、うるさすぎることは大問題だ。それをスマホ見なきゃいい、自己責任と切り捨てるのだから都合がよい考えだ。情報を見ないでも自走で考えられるようになってからでなければ現実には無理だろう。

同時にそんな問題解決ができないのは、根本的に不都合だからだろうと思う。矛盾を誤魔化せるのが「人気」だ。好きだから許すとか、悪いやつじゃない今回はかまわないとか、そう思わせる準備に、人気取りが有効なのはわかると思う。

「推し」も楽しいのならしょうがないかなと情的に思うけれど、プロパガンダ要素があるかというなら確かにそういった問題があると理的に思う。窮地に備える国は、外国に味方を作っておくものだと思う。東アジアや東南アジアはそういった空気の中にいると思う。

そのような情報世界に理想を見てしまうのもまた信者状態で、Qアノンと構成は同じだ。だけど信じさせることを崩してしまうと、口で売ってきたものが総崩れしてしまう。安全神話も無くなる。

ただし、メディアで共感を作っても、あとの世代にはその効き目がない。だから数十年前の問題と世相や人々が目を輝かせて見ていたものを見比べてみると、産業などがどのようにメディアを使い、人気によってうまいこと矛盾を伏せていたのかが見えてくる。味方をする感情がもうないから、冷静に見られる。数十年時代を遡って調べてみるのは重要だが、SEOでは上位に来るはずがない。だけど本では出版されている。(例:エビと日本人(岩波新書))

昔はおそらく、小さな生き物や草花を愛でていた。そんなイメージがある。でも彼らは言葉を話さない。情報に用心、情報のリテラシーというのは、話しかけるもの、さらに非言語的に意図を送り込んでくる者に用心しなければいけないということだ。

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