集合的サイコパス導入、ドミネーターを向ける人間によって色相が変化する…その意味とは?

PSYCHO-PASS|2、振り返りしました。

2期、数回見ていたはずなのに分かったふりしていた「集合的サイコパス」の導入と、鹿矛囲が朱に対して言った「集合であるならばドミネーターを向ける者もまたその一部になる。別の誰かがシビュラにドミネーターを向けた時には別の色になるかもしれない。」の意味を今後のためにここで改めて理解していきたいと思います。
自分の備忘録のためにもつらつら書いていくので大変読みにくいと思われますが、私と同じく集合的サイコパスってなんぞや!?ドミネーターを向ける人によって色相が変わるってなんで!?と疑問になった方、少しでも理解への手助けになれば幸いです。


①集合的サイコパスとは?

まず作品内における集合、を例にあげた時に鹿矛囲とシビュラシステムが挙げられると思います。

鹿矛囲は飛行機事故犠牲者の体をつなぎ合わせて作られた人間、様々な人間の「集合」であり、シビュラは免罪体質者の脳の「集合」で作られた1つのユニットです。
シビュラが鹿矛囲を裁けないのはシビュラも鹿矛囲も「集合」から作られたという点で同じであり、シビュラは自身を裁けないため鹿矛囲もまた裁けない…ここまでは分かると思います。
ここで生じる問題が「全能者のパラドクス」です。シビュラはシビュラを裁けるのかという鹿矛囲の問いであり、2期の命題といえますね。
このパラドクスの解決方法としてシビュラが取り入れたのが、朱が提案した「集合的サイコパス」の導入によって測定することなんですよね。

で、結局集合的サイコパスってなんぞや??というところに戻るわけですが…

個々のサイコパスがクリアでも集合になるとクリアではない可能性、ということです。
つまりどういうことなのか?シビュラを例に考えてみましょう。

シビュラは1つのユニットであって執行か執行でないかは最終的にシビュラの判断として1つの結論が出されます。
しかしシビュラは複数の脳の集合体。高速演算ではあるけれど1つの結論が出されるまでにはその「脳の中の人たち」それぞれが違う考えを持っていて、討論してすり合わせしているわけですよね?1期で自身もシビュラなのに藤間が朱にシビュラの正体を明かそうという提案が理解できなかったように。
それじゃないですかね?

「集合」には大小様々な形(数)があります。
シビュラシステムという1つの大きな集合体の中にもざっくりいうとAの考え方、Bの考え方etc...と別の考えを持つ小さな集合体が存在するのです。派閥みたいなね。同じ目的…例えば大きな集合ABとして「正義」を考えた時に、AもBも同じ正義に向かってはいるけどBグループの過激派思想のせいで外から見るとAB全体としての印象が悪くなる可能性がある、ABの正義レベルが濁るということです。AもBも正義という目的においてクリアでもBの思想を持ち得ている集団に所属するAもまたクリアとはいえない、これが集合的サイコパスではないでしょうか。

うーん、段々訳わからなくなってきましたね。

前述した集合的サイコパスの定義では導入においてシビュラはクリアであり続けなければならないという点に矛盾が生じてしまいます。
そこでシビュラがとったのは「シビュラの存在を濁らせる要因の脳を廃棄する」という選択です。
これによって自身が常にクリアな状態でいることに成功したわけですね。
作中に話を戻しますと、シビュラの中には集合的サイコパスを「認める」派と「認めない」派の意見が拮抗していたところに鹿矛囲が現れ、よりよい選択は「認める」と決断し、認めない派の脳を廃棄することで自らの全能性を保ったのです。東金美沙子が執行されたのもこういうことじゃないでしょうか。

そして、これにより世界に混乱を招きかつてない魔女狩り社会を迎えるというのは、
目の前にいるクリアな人間がある集団に所属した際に果たしてクリアなままなのか?
街を歩く人はサイコパスが保証された安心安全善良な市民であるという前提が崩れ、疑心暗鬼による混乱を招くことになる、ということだと考えました。

うんうん。集合的サイコパスの意味はなんとなくわかってきたかもな。
で、なんでドミネーターを向けた人によってシビュラの色が変わるの?


②ドミネーターを向ける人によって色相が変わる?

ドミネーターもシビュラの目。シビュラがシビュラを裁くなら、ドミネーターを向ける人間の意志は関係ないのでは?
これが最初に思っていた疑問でした。
が、そもそもこれは集合の定義を見誤っていたのです。

ではシビュラとは何でしょうか。
私はシビュラをざっくり「免罪体質者の脳の集合体」だと思っていましたが、その思い込みが考えを狭めていたようです。
もっと考えを広くもってシビュラとは社会の最大多数の最大幸福をもたらすために公正公平に善悪を判断するという「目的」の集合体であると定義してみることとします。
そもそもシビュラって自身の理解が及ばない新しい価値観や思想を持った人間を取り込むことによってその価値観を手に入れているわけであって、免罪体質者に限定された話ではないんですよね。実際朱もシビュラの一員として取り込んでみたらどうかって意見が出てくるくらいだし…

で、シビュラの定義を変えることで何が起きるのか

シビュラが免罪体質者限定でないなら、「社会の最大多数の最大幸福を考える意志を持つ集合体」という点ではドミネーターを持った人間もまた同じ目的を持つ集合体のうちのひとつとしてシビュラの思考として取り入れられる。のです。
新しい価値観を獲得するんですね。
これこそがドミネーターを向ける人間によってシビュラの色が変わる…という答えではないでしょうか??
新しい価値観を得て思考を拡張することによって考えが変化する…新しい価値観とはドミネーターの担い手…それにより色は変化する…
シビュラという完成された(と思われている)色に、新たな価値観という一滴の絵具を垂らした時、シビュラの色は変化する。この一滴の絵具は、ドミネーターの担い手によって違うので赤かもしれないし青かもしれない。違う色の一滴の絵具によって、混ざったあとのシビュラの色もまた違う…

これが答えではないかな。と私の中で結論に至りました。

シビュラは集合的サイコパス測定を導入したことによって新しい価値観を取得することに成功した。と同時に自身の中にある大小の集合体に対しても裁きの結論を出さなくてはならなくなった…という今後の行く末を暗示するような結末を迎えたのが2期の肝だったのではないでしょうか!!


以上が集合的サイコパスについてと、ドミネーターを向ける人によって色が変わる、ということを考えてみた結論です。
最後の方わわわーーっと書いてしまって何で??とまだ疑問が残るかもしれませんが(説明不足なところもありますゆえ)とりあえず私の中では腑に落ちたのですが…いかがでしょうか…
少しでも考えるヒントになればなあと思います。というかここまで読んでいる方は果たしているのだろうか。

備忘録のためにまた何かあれば記事書いたりしたいと思います!
ここまでお付き合いくださってありがとうございました!

いいなと思ったら応援しよう!