【瓦版】憧れのヒト
憧れの人と、会えることになった。
この喫茶店の扉を開けると、奥の席に座っているという。1時間電車を乗り継いで、ここに来た。いつもなら浮き足だってしまうけれど、いま人生のどん底にいるもので、顔が元に戻らない。私の人生は、いつも家族の問題がついて回って、それが無くなる気配がない。
ああ、満身創痍で会わないといけないことが苦しい。あんなに会いたかった人と、あと数十歩で会えるというのに。メイクで顔を明るくしてきたつもりだが、表情がついていけるか、ただただ不安である。帰りたい。
その憧れの人はとびきり明るい人である。いつもみんなを励まして、いろんな人に憧れられている。わたしもその一人だ。つい先日、応援の意味でダイレクトメッセージを送ると、返信が返ってきてなぜだが分からないけれど会えることになった。一生会えないと思っていた、雲の上の存在と会えること自体、宝くじが当たったようなものなのに、どうでもいい違う問題に意識が持っていかれてしまう。
もう考えるのはよそう。
扉を開けると、その人が扉に背を向け座っているのが見えた。
「こんにちは。はじめまして、マリです」
「あぁこんにちは…」
その人は私より暗い顔をしていた。えっと、なにか声のトーンがおかしかったか。挨拶、間違えたか。
「具合わるいですか。大丈夫ですか」
「いや、大丈夫ですよ。ちょっと今落ち込んでしまって、すいません初めて会うのに」
「いえ、ただのファンなのに会ってもらってるんで、もうなんでも大丈夫です」
「はは、ファンにこんな顔見せるのやだな」
その人の唇はひどくひび割れていた。髪も艶がなかった。爪の手入れだけは綺麗にしてあったが、いつも投稿されている写真では見たことのない、みすぼらしさを感じた。本当にわたしが憧れてきた人が目の前に座っているんだろうか。別の人だ言われても、今は信じてしまうと思う。
「あー、なんかとりあえず頼みますか。何飲みますか」
「ブラックで」
「じゃあ私もそれで」
コーヒーが来るまでの時間、沈黙をつくるわけにはいかないので、話しかけることにした。
「ファンと会うって、私が言うのもあれですけど怖くないですか」
「ふっ」
「私がどんなやつか分からないでしょう。なんで会ってくれたんですか」
「正直言うと、誰でも良かったです」
「ん…まぁそうですよね」
「なんだろう、時々わたしには本当にファンがいるのか確かめたくなるんですよ」
「何言ってるんですか。いつも良いコメントばかり付いてるじゃないですか」
「インターネットを信じてるひと?」
「だってあれは人間が書いてますよ」
「分かってないなー」
ブラックが二杯置かれて、彼女は一気に飲み干して口を拭った。こんな所作をする人だとは信じられない。
「いま、やっばいなこの人って思ったでしょう」
「はい。上品なキャラクターとしてずっと何年もあなたを追いかけてきたので」
「そんなの、一部ですよ」
「なんか自暴自棄になってます?」
「まぁ、うん。そのなんだろう、恋愛がうまくいってなくて。なんつーの?がっつり愛人をずっとやってきたんですけど、なんか今朝捨てられたっていうか」
「あのー、ファンにすべて言う必要ないんですよ。あなた、恋愛の達人として人気なんですよ。いつも幸せそうな写真とポエムをポストしたり、恋のお悩み相談スペースやったりThreadsやインスタもやってるじゃないですか。noteもメンバーシップ入って追いかけてるんですよ。毎週木曜の更新が楽しみなんですよ」
「あれはわたしの一部だよ。もうこの仕事やめてさ、愛人一本で行くんだ、あの人の横でずっと生きるんだって決めてたし。なのに、違う若い女に行ってしまって。Xでスペースしてる時も裏でラブラブなLINEをくれてたんだよ」
「すいません、あのわたし、あなたのファンなんですよ。知らないおっさんからのラブラブLINEの話聞きたくないんですよ」
「ファンならさ、全部受け止めてよ!」
彼女は大きな声をあげたので「シッ!」と注意した。憧れの人にこんなことをする日が来るなんて、心臓の鼓動がきつくなって苦しい。
「じゃあ一旦受け止めます。どうぞ」
「ありがとう。でもさ、愛人も立派な仕事でしょ。どれだけ尽くしてきたか。面白くない時も、どれだけ嘘ついて励ましてやったか」
「あー愛人って、愛の人と書きますね」
「そう、愛があるのよわたしには!」
「それは分かります。だから私はあなたが好きなんです」
彼女は、卓上に置いてあるシュガーの袋をちぎって、空のコーヒーカップにサラサラと中身を落とした。意味のない行為をやることで心を落ち着かせているのだろう。
「それなら良いけど」
「あなたにはもっとふさわしい人がいると思います」
「それファンとして言ってんの?」
「はい」
「今日くらいファンから抜けなよ、君の苦しい話もないわけ?」
「それは…もちろんありますけど憧れの人に知られたくないです」
「それだと私だけカッコ悪くなっちゃうじゃん」
「仕方ないですね。じゃあ最近あった地獄エピソードベスト3を言います」
「あるんじゃん」
それから私の渾身のしんどい話をするたびに、彼女は笑った。さっきまでの張り付いた苦しさが顔から少し消えていった。それより今日は、木曜日だ。彼女のnoteが更新される日だ。もう原稿は書いているんだろうか。
「あの盛り上がってる中、すいませんけど、今日更新日ですよ?」
「ネタ、ないよ。捨てられたんだから」
「いいえ、ファンのみんなの中のあなたは捨てられていません」
「え」
「え、じゃないですよ。ほら、アプリ起動して書くのです。みんなが欲しい情報を」
「えー、おっさんがLINEくれなくなったから悲しい、と書くか」
「だから、世間のファンはおっさんからのLINEなんか知りたくないんですって!夢を壊さないでください。そうだ、今日はセックスレス大克服ハウツー特集にしましょう!」
「それなら書けるかも。相手いなくなったけど」
「うるさい、その調子です」
わたしは彼女を励まし、更新を見守った。いかにも彼女が語りそうなことを横で囁き、筆を進ませた。
ああよかった、今日も憧れの人が座標を崩さず世の中に存在することができた。
そして今日も、1いいねは私のもの。
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『全部を賭けない恋がはじまれば』
(ひろのぶと株式会社)
ぜひ読んでください。いろんな人生を詰めた本です。感想、すご〜く嬉しいです。ぜんぶ読んでます◯精神がお腹いっぱいになります。
思いっきり次の執筆をたのしみます