会社員の異常な愛情 または私は如何にして傍観するのを止めて映画を愛するようになったか

好きな映画はベタだけど『ゴッドファーザー』かな

この一言が私の人生を一変させた。
大学入りたてで知り合ったばかりの友達から言われた一言だった。
私はその言葉に焦った。

観ていない

当時の私は『ゴッドファーザー』を観たことが無かったのだ。
今でこそ大好きな映画で、間違いなく自身のオールタイムベスト10に入る。
しかし、である。
映画は昔から好きだったし、それなりに観ているというよく分からん自負もあった。
その思い込みが一瞬にして砕け散ったのである。
今目の前にいる男は私が観ていない映画について、「ベタだけど」、というご丁寧に枕詞まで付けて話し始めたのである。
これは恥ずかしさを覚えるとともに悔しかった。非常に。

その時からだ。私が映画への偏愛を抱き始めたのは。
自分が好きだと言える「映画」の沼にとにかく浸かっていこう、心に決めた。
これが、こましゃくれた映画研究会みたいなやつらの言葉だったらここまでは思わなかっただろう(こういう偏見よくないね、ほんと)。
映画を純粋に愛して、その良さを別の映画好きなやつに伝えたいんだ。マウント取るつもりなんさらさらないよ。
そんな思いをもった友達の言葉だったから響いたのだ。
こいつの思いに応えられるようになりたい、そうも思っていたのだろう。
そして、俺の方が映画が好きなんじゃい、という対抗心も同時に抱いたのである。

それからの私は映画を研究するためにゼミを選んだ。
そこで出会ったのが、藤原帰一の「映画の中のアメリカ」という本だ。
その後には当然のように町山智浩にも行き着く。
私は彼らから沢山のことを学んだ。

①映画は作られた時の価値観を反映したものである。
    社会の共通理解と時代の精神性を知るのに最適だ。

②映画には見方がある。
    映画くらい好きに見させろ?それはごもっとも。でも見方を知ると日常はもっと豊かになる。

③映画は同時代性と普遍性を身に纏っている。
    作られた時代とその後で観るのでは見方や評価が変わる。
    私は1960年代後半から70年代前半に生きていないから、アメリカン・ニューシネマの普遍性に強く惹かれた。

そして私は映画を語る世界はもっともっと広いことを知る。
キネマ旬報、宇多丸や伊集院光を始めとしたラジオ、数多ある映画ブログ。
映画を読むということは映画を観ることとは独立した面白さがあるということに気付いた。
映画について語ったものはそれ自体が1つの作品であり、映画の主張を引用しつつ筆者・話者の主張を表現したものなのだ。
自分が観た映画、見ていない映画、そのどちらであっても映画について読むことは新しい世界への扉を開くことに他ならないのである。

そんな映画を語る世界が私はどうしようもなく好きなのです。
たまらんのです。
自分では観たという履歴だけ残すのみにも関わらずである。
そんな日常から脱却することが今回の目的である。
今後末永くお付き合いいただきたい。


次回はまた別のお話

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