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日記には書けないことを、あえて「書かない」と言うこと。 2024.04.03

朝7時起床。休日。日中のことは書かないでおこうと思う。書かないのならこういう書き方も本来であれば避けるのが良いだろうが、色々と考えてこう書くしかない。

ここ数日、日記には書けないことばかりだなあという気持ちになっていた(今回のことは本当に瑣末なことなので心配は本当に無用です)。
代表的なのは仕事のことで、守秘義務に抵触してしまったり、身バレを恐れるために仕事のことはほとんど書けないか、かなり抽象化して書いている。でも平日の大半の時間を過ごしている仕事のことは、日記の中に書いてしまいたいという気持ちがあるが、実際に書くことはない。
上記の理由以外に、どうしても仕事の話題になると楽しいことよりも愚痴が先行してしまうので単純に嫌だなと思っている。しかし、そうなると必然的にストレスを溜め込むことになる。
日記とは、生活のすべてを記述するように見えて実は書けない(書かない)ことの方が多い。しかも自分の抱えているものの根源にあるものこそ、書かなかったりする。日記とは自分に関するあらゆることを書き残す行為なのではなく、自分にとって「書けない」ことを知覚する行為なんだなとつくづく思う。そしてその「書けない」にこそ、本質的に自分自身で向き合わなくてはならないことが含まれている。Webという媒体で公開しながらも、ひたすらに内省していくという、不思議な矛盾を抱えているのだ。そう考えると、日記とはとても孤独な文章行為なのだとも言える。
もちろん、あらゆることを曝け出すこともひとつのあり方であると思う……が、どうしても自分の場合は身を削るような思いがするので、そこまでして日記は書くものではないと思っている。『大阪の生活史』に取り組んでいるときに、岸政彦さんがしきりに「えげつない話大会をしてるのではありません」「蟹の味噌汁と同じで、たとえ蟹を取り除いても味噌汁に旨味が溶け込んでいるように、面白そうな話題を削ってもその生活史は面白いんです」といったことを言っていたのを思い出す。だから自分が「書かない」と決めたことは書かなくていいんだと思う。
そう考えると、たぶん、身の回りの人たちも「書けない」「言えない」ことを抱えて生きているのだろうな、と想像する。それは仕事のことかもしれないし、家族のこと、パートナーのこと、自身の身体にまつわること、性的なこと、経済的なこと、過去のあやまちのこと、後ろめたいこと、よくわからないけど言えないこと……かもしれない。日記を書いていると、「今目の前にいる人には、僕には見えていない部分がたくさんあるんだな」という気持ちになることが多い。カテゴライズして過度にタブー視することはもちろん良くないが、確実に誰もが「語れない自分」を生きている。
だから僕は今回の日記ではあえて「書かない」と宣言することにした。それは誠意というか、なんだろう、わからない。

夜は赤垣屋に行った。イカの刺身を食べた。今日書かなかったことが、僕にイカの刺身を選ばせているのだが、それ以上のことはやはり書けない。

繰り返すが、「そんなことかよ」ということを書けないだけなので、心配は無用である。

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