言葉が届かなくなる

自分が社会学の視点を使うことを選択して、いまだに大事な場面では使いこなせないことが多いものの、なんとなくそういうものの見方が一部身についてきたきた気がする今日このごろ。
周りの友人とは話がだんだん合わなくなりつつもあります。

それは一つには、私の言い方が悪いんでしょう。どうしても、こういう話の時って、誰かが笑って流そうとした時とか、とっても個人モデル的な考え方(自己責任論ぽい考え方)のニュースや誰かのいじりに憤っている時なので、私の語気が荒くなる。いや単純に言葉が汚くなる。

以前、ずっと私の思考整理に付き合ってくれていた相手に「俺ちょっと社会学嫌いになりそう」と言われた。
「すーぐそうやって、マイノリティが、抑圧されている人が、特権層がって。でもさ、比較的恵まれている人や自分だって、しんどいこととかマイノリティ的な側面持ってることあるやん。そういう人はどうなるん?」
「特権が〜って、そんなん言ったら何もできなくなるやん。何しても社会の抑圧の構造に加担してるって言われるもん」

とってもわかる。けど私が言いたいのはそうじゃない。
今こんな風に困ってるんですって言える人の声は、もちろん聞く努力をするし聞いていきたいと思っている。し、社会はそういう人の声を聞くようにできているから民主主義だと言われている。
でも、それが声の大きい人の声しか聞けていないこと、ないですか?
大きな声を上げられない人、声を上げる機会や場を持たない人、そもそも出せる声を持たない人はいませんか?
困っていることがあるなら言えよ、はきっととっても暴力的です。
言えていたら困ってなんかないし、と思うかもしれません。
あるいは、今なんか苦しいけど、それが困り事だなんて思っていないかもしれません。
もっと言うと、例えば「障害者」や「シングルマザー」みたいな単なる属性で「この集団がマイノリティ」なんてことを想定しているわけではなくて、構造や人間関係の中でしんどい思いをしている人を総称する言葉が、既存の言葉の中では「マイノリティ」が一番しっくりくるから使っているだけです。どんなに身分が高い人でも、その人がその人として生きることが拒まれる社会であった時に声を上げられないような、あるいは現状が変わることに望みが見出せず絶望に駆られるような社会の抑圧的構造に埋め込まれているのであればそれは私の指すマイノリティにあたると言えます。
私はただ、そういう声があるかもしれないって思いながら生きたいと思っているだけなんです。それは私自身が、これまでたくさんの人の声を踏んできたからこそ自覚的でいたいし、踏まれたからこそ忘れたくない感覚なんです。


「社会学ちょっと嫌いになりそう」と言った人にとって、いや多分多くの最近私と話がすれ違う人にとって、「聞こえていない声があるかもしれない」といちいち考えながら生きることはとっても面倒で、自分で生きづらさを増やしているように感じてしまうのかもしれません。
でも、そういうことをいちいち考えなくてもいいのがマジョリティ(無論数の多い人の集団ではありません。ドミナント集団(支配集団)というか、平たく言うと「ふつうの人」です)であり、何も考えなくていい状態というのが既に特権的であると言いたいのです。それを言われたところで、マジョリティは何もしなくても、この世界で「ふつうに」生きているだけで差別や抑圧の構造の維持になんらかの関与をしてしまっているという事実を抱えて生きるなんて重いし自分にはできないと思うかもしれません。

だから、あなたにも自分の立ち位置を自覚しながら生きてほしいなんて言うことはできません。ただ、私はそうでありたいと思っているし、だから聞こえていない声を「ないもの」として扱う人には憤るし、何百回だってこの話をするでしょう。ごめんなさい。


* * *

最近、心身ともに調子を崩してどうしようもない屍になっていたんですが、この下書きと、いくつかのこれまでの自分のnoteと、尊敬してやまない新谷周平さんの論文や本を読み返して、やっぱり居場所づくりの研究は必要だし私がしたいと思えるようになりました。自分のことは嫌いだけど、自分から切り離されて放たれた自分の文章は好きなので、やっぱり自分のことそんなに嫌いじゃないかもしれないです。



我がバイブル(こんな高くない)


ぽてと


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