瀬戸風 凪

名画の面白い見方を探索の散歩人です。中でも北斎の「富嶽三十六景」連作の読み解きは、これ…

瀬戸風 凪

名画の面白い見方を探索の散歩人です。中でも北斎の「富嶽三十六景」連作の読み解きは、これまでの北斎の絵解きでは、最もサブカルチャー的と自負してます。 もうひとつのマストは、青木繁と明治近代洋画。ブラボー青木繁!の拍手を添えて、青木繁に問いかけています。どうぞその仲間になりませんか🌞

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    松尾芭蕉の俳句が、上質のエピグラム(寸鉄詩)であることを探ります。

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Essay Fragment/日々のうた織り ③ イージーボール

◪ 一瞬を堰 (せ) きとめる これじゃない!これが大賞に選ばれる絵だろうか。 高校生による絵画の公募作品展の会場。大賞 優秀賞の幾枚かの絵の前で、私は首をかしげた。感興 ( かんきょう ) に任せ選んだ私にとっての3作品の方は、すべて入選どまりの絵だった。 色がときの肌を映し、色がときの唇を結んでいる。 筆触が何かを引きちぎり、筆触が何かをねじ込んでいる。 これだ これなんだ! 私にとっての3作品にはそれがあった。 歌枕の風景を求め歩いて、自分のうたをそこに調べようとする

    • Essay Fragment/日々のうた織り ⑦ 紫陽花  

      「あなたに会いたい いつもそう思う」 詩人書家の相田みつをさんの寸言に、紫陽花の絵を添えた、いつの間にか醤油の染みもついている父の手製の一本の絵団扇は、父が遺した多くの色紙絵や額装の絵のどれよりも、私にはこころに染みる。この言葉を選んだとき、父が遠い人たちを思いやっていたこころを優しく思う。 「死んだらお母さんに会えるじゃろうか」 父は姉たち一族の集う席で、そんなことを言うときがあった。私が幼い頃に逝いた私の祖母。限りない優しさで私を包んでくれた祖母は、自分の子たちにも同じ愛

      • Essay Fragment/日々のうた織り ⑥ 停車駅の光景

        晩春のある日、午後4時を少し回った時刻。二両ほどのローカル線の電車の乗客はまばらだった。私は普段より早めの帰宅でその時間に電車に乗っていた。単線なので、反対方向行列車すれ違いのための停車時間がある無人駅でのことだ。 ぼんやり駅舎方向に目をやっていて、日暮にはまだ間のあるこんな時間には珍しい千鳥足の酔っ払い ( 中年男性 ) に気づいた。改札口に向かおうとしているのか、それともこの電車に乗ろうとしているのかわからない足取りだ。その直後だった。その男が私の視線から消えた。どうと

        • Essay Fragment/日々のうた織り ⑤ 広島平和記念資料館 

          私が初めて広島平和記念資料館へ行ったのは、昭和43年8月8日のことである。小学5年生ときの「遠足 」行事 ( 今日では社会見学というのだろう ) であった。半世紀以上も昔のことなのに、学校には残っているかもしない記録など調べなくても、こんなにもはっきりと日付が言えるのには理由がある。それはあとで述べよう。 こんなふうに死ぬのは嫌だ。痛いだろう。苦しいだろう。悔しいだろう。平和記念資料館内をめぐって私が感じたことで、今思い返せるのはそのことだけだ。それ以上の深い思索などはまだ

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        Essay Fragment/日々のうた織り ③ イージーボール

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          Essay Fragment/日々のうた織り ④ 手話

          60代を生きている今から見れば、霞の彼方のような30代半ばの出来事なのだが、両親や妻や子と、手話で会話する姿を思い続けた幾日かがある。ある日突然、理由もわからぬまま突発性難聴に襲われて、日常会話が出来なくなったのだった。現在では、医学的処方もずいぶん違ってきているのだろうが、当時私は医師からこう告げられた。 「早く病院へ来てよかった。一週間のうちに元に戻らなければ、最悪の場合は、全く聞こえなくなる可能性もありますからね。今聞こえていない左だけでなく、右の耳も。発症のメカニズ

          Essay Fragment/日々のうた織り ④ 手話

          ワタクシ流☆絵解き館その263・青木繁の絵に共振する与謝野晶子の詩篇

          文芸雑誌「明星」は、与謝野鉄幹が中心となって明治33年に創刊した雑誌である。藤島武二に表紙の絵を依頼していたことが象徴しているように、浪漫主義の画家を積極的に認めていて、その紹介も雑誌の主要項目だった。 青木繁もそのうちの一人で、明治37 (1904 ) 年の白馬会で公開され話題になった「海の幸」の、その後青木が画筆を加える前の映像を、明治38 (1905) 年3月の「明星/第4号」で、いち早く世に紹介している。( 下の挿図 )。この映像によって「海の幸」を知った当時の青年

          ワタクシ流☆絵解き館その263・青木繁の絵に共振する与謝野晶子の詩篇

          祈りのうた① ー まっすぐに生まれておいでよ

          きみに もうすぐ生まれて来るきみに つたえているみたいに 木々はこんなにも繁り 風にそよいでいる 日の光は何もかもをつつんでいるよ だからまっすぐに 生まれておいでよ きみに出会えたらぼくはこう伝えたいんだ   やっと会えたね   ぼくはずいぶん歩いて来たけど   きみに会うためにひつような一歩一歩だったんだね いまはまだ触れ合えないきみだけれど もうすぐぼくのところへやって来るきみのおかげで 過ぎてゆくぼくの時間もまた こんなにも繁り こんなにもそよいでいるよ き

          祈りのうた① ー まっすぐに生まれておいでよ

          詩の編み目ほどき⑭ 野木京子「花崗岩ステーション」

          「詩の編み目ほどき」シリーズでは、新川和江さんとともに現役詩人。野木京子さんはH氏賞受賞詩人。私と同い年の方だ。管理のもとに整然と動いてゆく社会に収まり切らず、溶けこめない思いや感覚を、非現実の場面によって寓意し、ざわざわとした想念へと導いてゆく。 代表詩集は『ヒムル、割れた野原』(思潮社、2006年第57回H氏賞)。最新詩集は2024年3月刊の『廃屋の月』。 この詩は、いかようにも解釈できる詩であろう。詩人が書き続けている作品系譜から詩作動機を考えれば、以下の解釈は的外れ

          詩の編み目ほどき⑭ 野木京子「花崗岩ステーション」

          ワタクシ流☆絵解き館その262 明治生まれ世代の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」評

          青木繁の二大名作のうち、「海の幸」は、その絵柄の不可思議さと迫力とが現在なお絵の価値を更新し続けていることを、「わだつみのいろこの宮」は、1907年(明治40年)3月20日から7月31日の東京府勧業博覧会においては、情実による三等賞という入選末席の評価しかなかったが、まだまだ調べ尽くされていない青木の修養の末の集大成作であることを、「ワタクシ流☆絵解き館」の記事で何度も触れて来た。 では、東京府勧業博覧会では、鑑賞者にどんな感想を持たれたのか、またその後どのように好まれて、

          ワタクシ流☆絵解き館その262 明治生まれ世代の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」評

          俳句のいさらゐ ❍✡❍ 松尾芭蕉『奥の細道』その十三。「あかゝと日は難面もあきの風」

          🟡 あえて同じ季語の句を同じ段に並べた◈ あかゝと日は難面(つれなく)もあきの風  芭蕉  この句を解釈しようとすれば、同じ段にある句 ◈ 塚も動け我泣声(わがなくこえ)は秋の風  芭蕉 に目が止まる。同じく「秋の風」を季語に用いているからだ。 先ずは、「塚も動け我泣声は秋の風」について、考えてみなければなるまい。 この句には、「一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに」と本文にある。金沢蕉門の実力ある

          俳句のいさらゐ ❍✡❍ 松尾芭蕉『奥の細道』その十三。「あかゝと日は難面もあきの風」

          ワタクシ流☆絵解き館その261 青木繁 その絵は描かれなかった!(のだろうか?)

          🏳 帰郷により幻に終わった仕事渾身の絵画「わだつみのいろこの宮」を、高く売る気でいた青木繁の目論見に反し、買い手はつかず、困窮生活は打開出来なかったのだが、その時期、まとまった画稿料が入るであろう仕事を受けていた。分類すれば挿絵の仕事になろうが、文芸雑誌「白百合」終刊号に、青木が描くはずだった書籍の発刊予告が載っている。 青木に予定されていたその仕事は、以下の内容だ。 ■ 書籍名     前田林外月間詩集「沼の人」 ■ 体裁      (シリーズとして出版 現在のムック本の

          ワタクシ流☆絵解き館その261 青木繁 その絵は描かれなかった!(のだろうか?)

          俳句のいさらゐ ❂◙❂ 松尾芭蕉『奥の細道』その十二。「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

          🔶「走馬看花聞香下馬」の思い「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」 この句から先ず連想するのが芭蕉の次の句だ。 いざ行む雪見にころぶ所まで     芭蕉『笈の小文』より 上に引いた「いざ行む」の句は、まるで童子のしぐさのような滑稽な姿を詠んで、ややおどけている。心の弾みをそれで示しているのだ。 『奥の細道』の「野を横に」の句にも、この無鉄砲さに通うおどけぶりが、かすかに含まれていると私には感じられる。 「野を横に」は「野の横道方向に進もう」という意で、つまりは、横道に逸れて、(

          俳句のいさらゐ ❂◙❂ 松尾芭蕉『奥の細道』その十二。「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

          賢治童話の 🚶‍♂️ 岸辺散歩 音韻を読む「風の又三郎」

          🍃 又三郎 ― 仏様の化身として宮澤賢治を取り上げたこの記事を読んでくれる人は、ストーリーなどは語らずもがなであろうから、前置きなしですぐに本論に入ろう。 現とも幻ともつかめない迷い径に入り込んだ嘉助 ( 又三郎を囲む児童のひとり ) の前に現われた、救済の使者としての又三郎の様子はこう描かれてい。る。 又三郎のこの姿から私にはある偶像が浮かぶ。それは、仏様 ( 仏像 ) である。 ガラスのマントを想像してみて、最も当てはまるのは、仏像の羅 ( うすもの ) の法衣である。

          賢治童話の 🚶‍♂️ 岸辺散歩 音韻を読む「風の又三郎」

          三島由紀夫 ⦿壮麗なる遺偈(ゆいげ)ー『豊穣の海』

          🔈 太宰治に発した三島由紀夫のことば日本の物語の原型は『竹取物語』と言われるが、それは奇想天外のプロット、予想しきれない結末へのしかけが読ませるための大きな要素であると示していることでもあろう。 『竹取物語』の系譜にある現代の小説を思うとき、その作り手として太宰治の名を挙げられるはずだ。そして太宰治を思うと、著名な戦後作家同士としてよく引き合いに出される組み合わせなのだが、三島由紀夫の名がひとつながりに浮かんで来る。 それは、三島由紀夫が先輩流行作家太宰治の文学をあからさまに

          三島由紀夫 ⦿壮麗なる遺偈(ゆいげ)ー『豊穣の海』

          和歌のみちしば ― 若山牧水「白鳥はかなしからずや」

          🔷 自らの心に問いかける「かなしからずや」「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」 近代短歌の中で最もよく知られ愛唱されるこの歌は、若山牧水が早稲田大学在学中、23歳の時に詠まれた。当時の恋人園田小枝子との恋が背景にあるのは、歌に添えられた「女ありき われと共に安房の渚に渡りぬ われその傍らにありて夜も昼も断えず歌う」という詞書から明確である。 この歌が、人々の心に強く呼びかけて来るのは、白鳥に向けられながら、その実は自問にほかならない「かなしからずや」

          和歌のみちしば ― 若山牧水「白鳥はかなしからずや」

          俳句のいさらゐ ✿◎✿ 松尾芭蕉『奥の細道』その十一。時間の奥行きを詠む

          「奥の細道」の中の、名吟の特徴として、 🔷 激しいもの、苦難を強いるもの、心を落ち着かせないもの、大きな力に動かされているもの、といった出来事や現象が先にあって、 🔶 そのあとに訪れた平穏を天の恩恵ともとらえ、ゆえにこの無常の刹那を愛おしむ寂情であり惜情でもある思い が詠まれている、と思う。 「奥の細道」の中の句の数々には、旅路ゆえの偶然性がもたらす景との遭遇に、反証的な視点を据えて、芭蕉が嘱目した時点に至るまでに過ぎ去った事象も内含された世界が表されている。偶然性がもたら

          俳句のいさらゐ ✿◎✿ 松尾芭蕉『奥の細道』その十一。時間の奥行きを詠む