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抽象表現とは?


 今、レジデンス(滞在制作)から帰ってきて、絵画や音楽に関する文献を渉猟しながら、「抽象表現」を探究している。抽象とはなにか?

『No. 1 Pure Pedigree』という作品でキュビズムを題材に舞台芸術をつくろうとしていたときに、さんざん考えてみたことではあるが、2年前の自分よりも確実な積み重ねがある現在の自分の頭で、いま一度、この命題に向きあってみようと思っている。

 絵画や音楽の分野から「抽象表現」を学びとろうとしているのは、それらの分野が、舞台芸術よりも純度の高い抽象表現をおこなっていて、鑑賞者もまた、その抽象度を許容して、作品を味わえているように僕の眼には映っているからだ。と同時に、レジデンスで画家とミュージシャンと出逢い、意見交換をしたという経験はひじょうに大きなきっかけにはなっている。


 その作品を単体で評価しながらも、コンテクストで分析し、その作品が全体のなかでどのような位置に立っているのかを捉えること。


 僕がやらなければならないのは、自分が舞台芸術の分野で実現しようとしている理想の「抽象表現」が演劇史的な視座で、どこに位置するものなのかを明確にしていくことなのだろう。たぶん位置づけが明確になることで、自分がやろうとしていること(理想の「抽象表現」)に価値が生じる。


 狩人が一羽のキジを撃ち落とした。

「刹那、この鳥は枝にぶつかりながら落下してきた」。

「羽をむしられるにつれキジであったものは脂ののった丸々と肥えた肉となり、やがて二度と羽毛のように軽やかに宙を舞うことのない、早くも血が固まりはじめた無様な死骸へと変じていくのである」(セマー・カイグスズ、宮下遼訳「キジ」)


 抽象表現とは「キジであったもの」がキジのまま、キジでなくすることだ。ここではそれが「不様な死骸」として描かれてあるけれど。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。