浪曲・掛川宿から考える文体
広沢菊春の浪曲・掛川宿をカセットテープで聞いてから眠った。
翌朝、浪曲で何がおこなわれていたのかを把握するために、昨夜の記憶をたどりながら手帖に書き起こした。
冒頭の話はイントロデュースのようなもの。本でいえば前書き、音楽でいえばプレリュードのようなもの。要約とまではいかないが、簡単に全体を紹介するような役まわり。観客に期待を持たせる。
次に対話が起こる。ここは謡にはなっていない。落語のようなまわし。しばらくすると、またもや謡が入る。
謡はト書きのような役割を果たしたり、ストーリー上、リフレインをする箇所を軽快にし、客を飽きさせないためにももちいられている。
謡うか、謡わないかは演出的裁量であり、ある種のサービス精神、観客への配慮であるともいえる。
謡うか、謡わないか。この裁量がダイナミズムとなって緩急となる。ひとつの“曲”になる。
文字起こししたのを読めば、謡うところと謡わないところの文体が異なることがわかるだろう。演出的視座からすれば、役割から文体が創造される。作家的視座からすれば、文体から役割が創造される。
以下、文体と役割の関係性。
自分はこれらの手法、ひとつひとつを効果的に劇内に組み込める、そこが強み。
あとは役割を分担させた文体同士を接続させて、ダイナミズム(緩急)を生み出し、ひとつの“曲”にすることに成功すれば、理想はかたちになる。
関連記事
① わたしだけの文体を求めて
② 「書くようにしゃべる」と「しゃべるように書く」——尾川正二『文章のかたちとこころ』、年森瑛「N/A」について
③ 沈黙と演劇の一部
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。