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【短編小説】 カートリッジ

澁谷はiQOSの本体からタバコを抜きとった。「もう1本だけ、いいかな?」

「何本でも、構わないよ」と僕は言った。そして夜空を見上げると真っ黒い闇のなかにガラスの塵が散りばめられているみたいに輝きを放っていた。もっと目を凝らす。それは星々のようでもあるが、ただたんに僕の目がちらついているだけかもしれなかった。

「iQOS」、つぶやくようにして、僕は言った。

「いや。これはプルームテック」

あぁ。僕が目をこすっているあいだに、澁谷はポケットからたばこをとりだした。本来のたばこよりもずっと短くなってしまったその棒を「本体」に差しこんだ。
僕は今、ついその紺色をした装置のほうを「本体」と言ってしまったけれど、「たばこ」として喫われるのは棒のほうだ。僕が先ほど「本体」と言ってしまったそれはどちらかというと、本来のたばこでいえば、たばこに火を点けるためのライターの役割に過ぎない。そのように考えると、短い棒のほうが「本体」なのではないか。

しかし、ゲーム機に置き換えて考えてみたらどうだろう。僕が初めてゲーム機に触れたのはゲームボーイ・カラーだった。叔父が持っていたそれを、たまに貸してもらった。ゲーム機でいえば、「本体」はゲームボーイで、ゲームデータが入っているカートリッジをつけ替えて遊ぶことになる。そう考えると、僕が無意識に紺色の装置——ライター代わりのそれ——を「本体」と呼んでしまったのにも納得がいく。

僕がゲームボーイに初めて触れたのは25年以上前のことだ。人類はいまだに「本体」と「カートリッジ」によってものづくりをすることを基本としている。考えてみれば、身のまわりにあるもののほとんどがこの構造を成している。この邸宅に置いてあったコーヒーメーカーだって。コーヒーメーカーが「本体」だとすれば、コーヒー豆は「カートリッジ」だ。ターンテーブルとスピーカーが「本体」。レコードは「カートリッジ」。ここ数年で変化したことといえば「カートリッジ」がかたちを持たない——データ——になったということくらいだ。確かに「カートリッジ」はかたちを持たないようになりつつあるが、「本体」と「カートリッジ」で構成される、物の構造はほとんど変わっていない。スマートフォンが「本体」であるとすれば、ひとつひとつのアプリケーションは「カートリッジ」だ。私たちは無数の「カートリッジ」を選びとって、「本体」をカスタマイズしていく。

最後に、この「本体」と「カートリッジ」という言葉をつかって、少しこわい話をしてもいいかな?

「いいよ」

喩え話のようなものだ。SNSのようなプラットフォームを「本体」だとすると、「カートリッジ」はわれわれユーザーひとりひとりということにならないか。ユーザーがおもしろい情報コンテンツを提供する。取っ替え引っ替えにそれを楽しむ様子はまるで人間がゲームの「カートリッジ」になって、プラットフォーム=「本体」のためにあくせく働いているみたいじゃないか?

「だけれども人間はなんのためにあくせく働くのだろう? まさかプラットフォームのために働くわけじゃない。人間は、人間のために働いているんだよ。「本体プラットフォーム」を利用している人間のために」

人間は、人間を楽しませるために働いているということ?

「そう。人間は誰もが潜在的にエンターテイナーであるのかもしれない」と澁谷はそう言って、僕の表情を伺った。「誰もが、というのは言い過ぎたかもしれない。でも多くの人にとって、他人を喜ばせたり楽しませたりすることはわかりやすく快楽につながる。それは、自分が必要とされている、という承認の感覚に直結するからだろう」

自分が必要とされている

と僕は言葉を反芻した。

という承認の感覚に直結するから

しかし、多くのサディストが、マゾヒストに対して鞭を入れるのは……ああ、そうか、あれもマゾヒストを悦ばせているから、サディストはサディストとして存在していられるのだ。もしも鞭を入れられたその相手が悦ばなければ、それはサディストではなくてただの加害者だ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。