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純粋な心を持ち続けたい

たまに子供の純粋無垢な心がとてつもなく羨ましくなる。

取り繕わなくてよい自分でいたいとそう思うのに、自分の心に素直になれない口(思っていることと発している言葉が違うということを言いたい)にはよく遭遇する。

それもまた自分と解釈してしまえばそれまでだが私は取り繕う自分はあまり好きではない。

純粋な心とは

純粋という言葉をネットで調べると下記のように出てきた。

1 まじりけのないこと。雑多なものがまじっていないこと。また、そのさま。「—な(の)アルコール」「—な(の)秋田犬」

2 邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと。また、そのさま。「少年の頃の—な気持ち」「—な愛」

3 そのことだけをいちずに行うこと。ひたむきなこと。また、そのさま。「学問に対する—な情熱」「—に真理を追い求める」

4 哲学で、外的、偶然的なものを含まず、それ自体の内的な普遍性・必然性をさす。

5 学問で、応用を考えず理論だけを追究する分野。純粋数学・純粋法学など。

goo辞書

こうして見てみると強いて言えば2番が近いが、私の認識する純粋とは少し異なる気がしている。

大切な人の笑顔をみて、幸せだと思える
ご飯を食べて、美味しいと思える
お風呂に浸かって、極楽だと思える

そんな日常の些細な出来事にプラスに心が動くことを敏感に感じ取り素直に受け取れる心を備えた状態を純粋であると思っている。

なぜ純粋な心を持っていたいのか

結論から申すと「純粋な心を手放してしまったら、自分自身が穢れていく感じがするから」

はい、感覚的な話すぎて何を言っているのかよくわからないかと思います。

要は感性を保っていたいということなんだけど、純粋な心じゃなくなるといらぬ欲求まで出てくると思っていて。

強欲になって、そのレベルの欲を満たしてくれないと満足できない心になっていく気がしている。

話は変わるが、私はカメラが好きである。

カメラのファインダーを除いて自分の映したい一画のみに焦点を当てるとなぜか世界が美しく見えるのだけれど、感性が変わることによってその世界が美しく見えなくなることが少々怖いのだと思う。

(怖いという表現より適切な言葉がある気がしているが思い浮かばないので怖いという表現に留めておく。)

今美しさを感じられているものが自分が変わってしまうことによって美しさを感じられなくなること。

それはただの月日の経過による心や体の成長なのかもしれない。

しかし私の望む成長ではない。

だから足掻いていたい。

足掻くために純粋な心を持ち続けていたい。

30歳になっても50歳になっても70歳になっても純粋な心を持っていたいという欲は私にとっては不変である気がしている。

そのくらい大事にしたいことだし、大事にしたいなら大事にすればいいという己の心に従いたいとも思う。

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