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福島出身大学院生による福島FS〜2日目午前編〜

さあ、2日目の始まりである。2日間のFSなので、この日で最後である。2日目では帰りの時間に余裕を持たせるために、あまり多く回らず一つひとつをじっくりと見ていった。

起床後

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前日の晩に坂を降りたところの棚田についてのお話を聞いて、起きてから散歩に出かけた。意外に寒いかと思いきや日光がとても暖かく、散歩にはちょうどよい気温だった。シーズンが過ぎて何もないが、これからは田んぼに水を入れて、田植えの季節まで待たなければならない。ここにはビオトープもあり、様々な生物がいるそうだ。実際に廊下にはここで見られた生物が写真と共にまとめられている。農業体験もやっているため、訪れることをお勧めする。

散歩から帰り朝食を食べ終わってからは、震災当時のことについてお話しした。ここ東和地区では、原発事故があってから浪江町から避難してきた人たちを受け入れて支援をしていたということを知った。当時の風向きから放射線量の高い津島地区からも避難民を受け入れていた。浪江町には避難に関する情報が国からも県からも入ってこず、自主的に避難を指示したという。その情報の時間差もあり、住民たちは必要のない被曝をしてしまった。

当時は炊き出しの作業に追われていたそうで、東和地区の農家さんたちが力を合わせて支援していたそうだ。廃校になっていた小学校も使っていたものの、そこも線量が高いということも聞いた。前述の通り必要のない被曝をしてしまい、なおかつ車での避難が多かったため、放射線がそのまま衣類や足元、タイヤにくっついてきたと予想している。そのせいか、実際に校庭の線量を測ってみても高かったそう。

また、この地区に建てられた減容化施設に対する住民運動についてもお聞きすることができた。莫大なお金を用いて建てられた施設だが、住民の反対を押し切って建てられたということを聞いて、歴史が繰り返されているということを知った。住民らの署名を集めて提出したが、交渉はその土地の地主と個人的に行っていたそうで住民は何も知らなかったという。なおかつその施設の役目を終えたらそれを解体して、その土地を返すそうだ。億単位のお金をつぎ込まれて建てられた施設が解体されて何も無くなってしまう。確かに除染のために必要かもしれないが、我々の税金の使い道に対して疑問符がつく。また、その返納された土地自体も放射線が残っていたら元も子もない。「立つ鳥跡を濁さず」ということわざもあるが、むしろ汚して帰ってしまうことに不安を抱いている。

除染に関しても、田んぼなどが「点」で除染されているという。一度避難した住民が持っていたものであるが、その土地に帰ってくる人の土地を除染しているそうだ。「面でやらなきゃどうしようもない」という言葉にもあるように、確かにその一点を除染したところで放射線は周囲に残っている。生活環境も汚染されたままになってしまっていて、永続的に住むことが難しいのではないだろうか。自然に現象を待つことも策の一つではあるが、種類によっては10年単位で減らないものもある。

そんな話をしていると、出発予定時刻を30分超えてしまった。だが、この話を聞かずに出発できるはずがない。その当時何が起こっていたかを知ることは、自分にとって必要なことだった。そして同じ時を共有していても、場所によって起こっていたことは異なる。以前の私だったら「そうなんだ。ここではこんなことが。」という形で終わっていたかもしれない。今は自分の心のアップダウンや苦しさがよく分かる。(身内にしか分からない表現だが)やはり無機物から有機物になったのだろうか。

そして出発する前にその減容化施設を見るためのマップを手書きして頂いた。目的地の道中で、少し車を停めて車内から見てみた。立派だが風景に合わぬ佇まいである。

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美味しい食事、震災当時や教育に対するお話、様々な情報提供、本当にありがとうございました。

東日本大震災・原子力災害伝承館

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帰還困難区域の津島地区を通ってたどり着いた先は「東日本大震災・原子力災害伝承館」である。2020年にできたばかりの施設で、館内含めとても綺麗な場所だった。隣には双葉町産業交流センターが建っている。そして目の前には整備中の土地、広い芝生、高い防波堤が見えている。11年前と全く様変わりしてしまったのだなと心の中で思った。住宅もあり、そこに暮らす人々がいたにも関わらず、地震・津波・原発事故で避難を余儀なくされたり命を落としてしまう人もいたのだ。

館内に入って一番最初に案内されたところは、白が基調になっている高いホールである。そうすると5分間の映像が流れる。スクリーン代わりにもなっている壁に映像が投影され、日本・福島の今までが簡潔にまとめられていた。これから展示を回るにあたっての「序章」であった。映像を見終わると螺旋状になっている通路を2周して2階の展示室に上がっていく。その道中、現在までの年表がスクリーンとなっていた壁の裏に描かれており、それを眺めながら上がっていく。原子力が推進された背景も描かれているため、概要を掴んでから展示室に入ることができた。

展示室に入ると、一気に空気が変わる。黒が基調の空間に展示が並んでいる。一気に重々しくなる。そして震災や原発事故を伝えるパネルや実物が展示されており、それらに囲まれた私は当時の記憶がフラッシュバックし、鳥肌が立つと共に心が苦しくなり動悸が激しくなった。もしかしたら私にはそれを受け入れるための準備が足りなかったのかもしれない。じっくりは見たものの、どうしても先へ行きたいという気持ちが出てきてしまう。それを抑えながら展示品と対峙した。進んでいくと、除染のことや避難したことによる影響を示すデータなどが展示されていた。最後には福島イノベーションコースト構想に関することも展示されており、時系列のような形で展示が進んでいく。

そこでも私は心が苦しくなる場面が何度かあった。1つは地震が発生して校庭に避難して屈んでいる子どもたちの写真である。それは中学生だったであろうか。年はあまり離れていなさそうだった気がするが、それを見て私も当時の避難の様子を思い出した。校庭に避難すると下級生から同級生まで泣いている子が多くいた。余震が起こった時にも若干の悲鳴が聞こえたことを覚えている。校舎内では非常ベルが鳴り響き、電柱が傾き信号も付かず、敷地内に地割れやひび割れもあり、先生方が私たちを避難させて慌ただしくしていた。今でもそれを思い出す度に鳥肌が立つ。

もう1つは「いじめ」に関する展示である。展示品としては1点しかなかったが、原発事故の影響で県外へ避難した子どもが学校でいじめに遭うという事案がいくつも起こった。その当時の副読本が展示されており、どれだけ苦しい思いをしたのだろうかと思いを馳せた。目に見えないという恐怖心が誰にでもあっただろう。そもそも放射線教育がなされておらず、安全神話だけが先行していたが故に認識が薄かったということが問題だったのかもしれない。現在の状況を見ても、類似した事案を受けている人もいるのではないだろうか。

そして展示を見終えて3階に上がると屋上になっており、そこからは太平洋を一望できる。11年前はここに津波が来たのだと思うと、さっぱりしたという感じがするが、むしろ痕跡がほとんどなく「整備されすぎた」ように思える。「復興」とは何かということも考えさせられる。今回のサムネイルになっている画像がまさにこの景色なのだが、よく見るとそのままの瓦礫や、津波で傷んだ建物が残っている。左手には2日目午後編で紹介する震災遺構も見ることができる。これは実際に見に行ってもらいたい。そしてそこで何を思うだろうか。

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一通り見終えて施設を後にし、隣の交流センターでなみえ焼きそばを頬張った。B級グルメで一時期有名になったことを誰か覚えているだろうか。久しぶりにそれを食べてみるとやはり美味しい。「焼きうどんじゃん!」とつっこみたくなると思うが、それは一旦置いておいてほしい。立派な「焼きそば」である。午前中に伝承館を回り、お昼に隣の交流センターでお昼を頂くというのがおすすめである。

擬似的に当事者になる

当事者性に関してはいろんな議論があると思うが、ここを訪れて展示を見ていると、経験した当事者になっているような感覚に陥る。展示を通してミラーリングしているような感じだろうか。概要編で挙げたように「共事者」として関わることが私にとっては救いであるが、ここではそれを超えたようだった。私の知らないことも含め、たくさん知ることができたのは収穫である。前述のように少し受け入れることが難しい状況にはあったが、次訪れた時は今回よりも受け入れられることを少しでも多くしておきたいものである。

このように資料館は各地にあり、誰が設置しているかで見方が異なる。私は今後いくつかそのような場所を回ってみたい。皆さんも調べてみてはいかがだろうか。

To be continued...

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