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福島出身大学院生による福島FS〜2日目午後編〜

さて、このシリーズも終盤である。今回は本FSで最後に訪れたところを紹介したい。しかし、今回は写真は載せずに、皆さんに情景を想像してもらいたい。

震災遺構 浪江町立請戸小学校

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最後に訪れたのは「震災遺構 浪江町立請戸小学校」である。海が目の前にあり、実際に津波が襲った小学校である。当時の教職員や児童は奇跡的に全員無事であったということが何よりもよかったことである。

校舎には実際の津波の高さが示されており、改めてそれを目の前にした時に予想を超えた高さの津波が押し寄せる時の怖さを感じられた。以前からこの地区には津波が来ないと言われていて逃げなかった方もいたそうだが、改めて防災・減災について考えるきっかけをくれる施設の一つでもあるのではないだろうか。

敷地は全面的に芝生になっていて綺麗なっているが、対照的に校舎内は当時のままである。ここも同様に、メディアで当時の被害がどのようなものだったのかを知ることができていたが、実際に目にしたことはなかった。今回初めて目の当たりにして、私の心は一番苦しくなった。被害があった現場の中に実際に自分がいたからである。確かに資料が展示されている中に身を置くことはあったが、その比ではない。壊れた建物の中にいるからだ。ましてや自分が震災当時小学校にいたことと重ねれば、どれだけ私がいた小学校があまり壊れずに済んだことの恩恵を受けたことかを感じられる。それらが重なり、私は本FSの最終盤において最大限にじっくり時間をかけて回っていた。

また、順路に沿って歩いて行くと、当時の児童と教職員が津波から避難した実際の話から制作された「請戸小学校物語」のパネルを追うことができる。実際の現場を見ながら、当時の児童と教職員のことを想像すると、なおさら私の心は苦しくなっていくばかりであった。彼らに思いを馳せると、いかに当時が切迫していて不安や恐怖、緊張が包んでいたことだろうか、想像もつかない状況だったのだろう。特に教職員に関しては子どもたちの命を預かっているという点での責任感もあっただろう。

普通教室や多目的教室が見える廊下に入ると、そこには無惨な姿が広がっていた。未だかつて経験したことのない現場であった。固定されていないものは全てが流され、そこに残っていたのは本当に少し。よくパソコンが残っていたなとも思う。当時の写真と一緒にそこを眺めると、震災によってこの楽しかった日常が奪われてしまうことの絶望感を考えさせられる。そして津波が一瞬にして奪っていくことの恐怖心を煽られる。

ロッカーには当時の在校生だろうか、名前のシールが貼られたままである。教室の前方にあったであろう黒板ですら流されてしまっている。奥にあるストーブも私が小学生時代使っていた型と全く同じであったが錆びてしまっている。このストーブこそ、私の記憶と重ね合わせる一番の光景だったのかもしれない。当時同じ小学生だった私も使っていることが一番影響している。実際に2階の展示スペースにいくとそのストーブ(浸水からぎりぎり免れたもの)が当時のまま残っている。おそらく触ることができただろうが、私はできなかった。自分がその記憶を呼び起こされそうになるのを恐れたのだろうか。一度見てしまったからこそ、私には触る勇気がなかった

進んでいくと水道やトイレ、印刷室などが見えてくる。水道に関しては津波の跡をそのまま残していた。砂が溜まり、壁もボロボロだった。鏡はほとんど剥がれていたが、数枚残っていただろうか。その鏡も砂まみれで濁って見える。その鏡を覗くと私の姿が映るのだが、やはりそこでも少し怖くなってしまいすぐに目を逸らしてしまった。放送室に入るとずっと使っていたであろう機材が錆びつき壊れた状態で置かれている。印刷室の中は愕然とした。瓦礫の倉庫と化していたのである。印刷室とも言い難い。漁港から流れてきたであろう発泡スチロールでさえ見られた。

そして職員室、本当に何もない。当時使っていた先生方の名字入りのマグネットだろうか、それが貼ってある黒板、チャイムや時刻を刻む機械が倒れている。この機械が壊れた瞬間、校内の時計は一斉に止まる。なので、2階にある時計は全て同じ時刻で止まっている。そして職員室後方には様々な資料がそのまま残っていた。そこには当時の授業計画だろうか、多少汚れて破れてはいるものの、鮮明に見ることができるくらいのものがそのまま置いてあった。「地域の安全を願って」「ふるさとで共に生きよう」という言葉がとても重く捉えられた。

そしてそこから外に出て校長室やランチルームを外から眺めるのだが、またこれらも無残な姿である。校長室にある金庫は錆びていて、時間の経過を物語っている。ランチルームでは瓦礫の山になっていて、当時使っていたであろう汁物を入れるための容器が重ねて見られる。ここまで来ると、本当に現実に起きたことかと疑いたくなる。

そこから校舎の隣にある体育館に向かって歩いていくのだが、実際に中を見てみると床は陥没しているのがすぐに分かる。ただ体育館それ自体の様相は変わっていないのだろうか、扉や床にしか損傷は見られない。ただ私が再び心が苦しくなった場面が訪れる。ステージの方に目を向けると、「祝 修・卒業証書授与式」のパネルが掲げたままである。3月だったということで、予行演習もやっていたのだろうか。私自身も6年生だったため、卒業式の練習はよく行っていた。それが震災や原発事故によって短縮されたものになったことを今でもよく覚えている。ただ、私よりもここの当時6年生だった同級生たちは卒業式どころではなかったはずだ。そんな同級生に想いを馳せると、小学校最後の思い出が最悪の形に一瞬で塗り変わってしまったということを受け入れきれなかったのではないだろうか。

そこから2階の展示スペースに上がる。床面の浸水がぎりぎり免れたのだろうか、そのままのフローリングが使われていた。校舎内に土足で入るという違和感はあったものの、ここが本当に小学校だったということを実感させられる。展示スペースには町民の思いが綴られていたりと、これまた考えさせられる。また、教室に入ると拠点として利用されていた頃に黒板に書かれたメッセージがそのまま保存してあった。中にはアラビア語も書いてあって、どんな人たちがここにいたのだろうかと考えたくなった。

その後、約17分間の映像を見て、この地区に生活していた人の体験や現在を見てきた。この請戸地区の現状も知ることができ、ここに戻ってくる場所が作れないということも知り、故郷を喪失するという気持ちがどのようなものなのか、絶望感に駆られそうだ。だからこそ「請戸小学校」というある種のシンボルを中心とした、目には見えないネットワーク構築の重要性を考えさせられる。

全てを見終わり潮風に当たる。ここでこんな凄惨なことが起きたとは思えぬほどのどかな芝生の上で少し休んでいた。しばらくして帰路に着くために車に乗り込んだ。ここに着く直前に流れていた曲が車内で流れ出す。The Beatlesの "Get Back" である。"Get back to where you once belonged." 今から50年ほど前の曲ではあるが、この歌詞をどう捉えるだろうか。

帰路にて

一通りのFSで企画した施設には全て訪れて、あとは帰るだけである。ただ帰るまでがFSである。新白河駅に向かうのだが、常磐自動車道は富岡まで使わず、国道6号線をひたすら南下していく。帰還困難区域の中を通り、なおかつ原発の横を通って帰るのである。放射線がある日常自体に慣れてしまっている自分がいたが、ここでは少なからず怖さはあった。こんな線量の高いところに来たことがないからである。

南下していく途中にいくつか店舗があることを遊雲の里で教えて頂いたため、その様子を横目にしていくことにした。原発が近づくにつれて緊張感が高まった。なぜだろうか、喉のあたりに少し違和感を感じた。看板には、「福島第一原子力発電所」の文字が見えた。「ここを左に曲がればあの原発か」と思うと怖さが増すと同時に達観している自分がいた。普通であれば避けたいところを通っているが、私は実際に通った。この気持ちは文字に表すことが難しい。今度先生や仲間たちと来る時にも通りたいとは思うが、ここだけは一人ひとりの意見を尊重してルートを決めたいと思う。ただ、ここを通ることで感じたことはみんなで共有したい。何を思うだろうか。

そして原発を過ぎると、いくつか大きな店舗が見えた。中は2011年3月11日で止まったままであった。服がかけれらているラックは倒れ、ガラスも割れていた。そして驚いたのが、看板が何も変わっていないということである。何が変わっていないかというと「税率」である。現在は消費税が8%になっているが、当時は5%だった。そのため、「100円(税込105円)」の表示を見た時に私は素直に驚いてしまった。車のスピードも少し落として見てしまった。私は消費税が5%の時代を生きていたのだと改めて実感させられた。

そこから富岡に出て常磐自動車道を使って新白河駅に向かった。ただそこに向かう道中に、有名な「夜ノ森の桜のトンネル」を背にICに向かっていった。桜は時期的にまだ咲いていないが、今後1ヶ月もしないくらいで咲き始めるのだろう。あれから11回目の春を迎えるところなのであった。

帰宅、そして元の日常へ

午後5時、新白河駅に到着した。そこにはいつも通りの生活が流れていた。あの日から止まっているものは(ほとんど)見受けられない。私は時間が止まったままの場所を経験したからこそ、この日常がどれだけありがたいものなのかを再確認した。

これが東京に帰っていたらどうだろうか。県内の移動だったため風景に似通ったところがあるが、東京に帰ったらまた別世界だと思っただろう。毎度福島から東京に帰る度に世界が違うことを実感しているが。やっぱり福島が好きなんだなあ。

今回のFSでは本来大学院生で行く予定だったものを踏襲して計画して敢行したが、人との出会いはこれで留まらない。まだ会うはずだった人がたくさんいた。今度行けるようになったら、今回出会った人にもう一度会いに行き、また新たな出会いを求めて訪れたいと思う。

To be continued...

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