【考察】『ハーモニー』伊藤計劃

胸の膨らみと世界のあり方についての思春期女子のよくある悩みを聞きながら今日も酒がうまい。

【以外ネタバレを含む】
"Ghost in the machine"とは、デカルトの人間観を揶揄したギルバート・ライルの言葉だ。「心は身体の中にありながら身体を支配する」とする機械論的な心身二元論に対して、「そのような考え方では、我々の自意識について『機械の中に幽霊が住んでいる』としなければ説明がつかない」と批判する。
「機械の中の幽霊」は「シュレディンガーの猫」と同じ運命を辿る。すなわち、「そんな議論を認めたらこんなおかしなことが起きてしまう」という喩え話でありながら、提唱者の意図とは裏腹に「直観に反する世界観」の象徴として受容された。
士郎正宗の『攻殻機動隊』の英語タイトルは"Ghost in the shell"だ。「機械の中の幽霊」をポジティブに捉えて、人間の自意識や自由意思を描く。草薙素子は言う。「己のゴーストに従いなさい」と。

それに対して、「人間はちょっと複雑な機械でしかないし、中に幽霊なんて住んでいないよ」というのが伊藤計劃であり『ハーモニー』だ。意識も意思も、ヒトが進化の過程で獲得した形質に過ぎない。味覚や聴覚、あるいは消化や吸収と同じだ。
「意思」は脳内で複数の報酬系が結合の強さを競いあった結果であり、結果が報酬系にフィードバックされるため、意思に基づく選択は時とともに移ろう。さらに、人間の選択は「合理的な指数割引」ではなく「不合理な双曲線割引」に基づいて目前に迫った報酬を極端に評価する。つまり、人間の意思も自然現象としてモデル化が可能で、理論的には介入・操作も可能なのだ。
※双曲線割引が「不合理である」ことは予備知識がないとわからないかもしれない。というかなんなら作者も少し誤解している可能性がある。後述。

物語の舞台は、「大災厄」を経てヒトの生存と健康に至上の価値を見出す「生命主義」に染まった近未来の世界。医療の進歩により健康状態が常時モニタリングされ、自殺や老衰以外でヒトが死ななくなった世界。身体や生命はもはやその人だけのものではない、貴重な「公共的リソース」になる。自分が公共的リソースであるように、他者もまた公共的リソースであるから、人は自分の心身の健康に気を遣うと同時に、他者にありったけの思いやりをぶつけながら生きる。大人たちは言う。「リソース意識を持ちなさい」と。

生存と健康のために身体のあらゆる機能を外部化しつつも、脳は最後の聖域として残されていた。医療分子が脳関門血管を突破できないから、とされていた。実際には脳に干渉する技術も既に開発されていて、人間の「意思」が何者かにコントロールされることで物語が動く。不合理な葛藤を排した、完璧な調和(ハーモニー)を目指して。

テーマとしても世界観としてもありがちなディストピアで、ご丁寧にフーコーを引用しているし、ホッブズもやや匂わせている。ど真ん中ストレートみたいな感じ。

人間機械論、今風に言うと進化心理学的な世界観が根底にあるのだけれど、意識や意思についての進化心理学的解釈にやや疑問が残る。
作中では「不合理な双曲線割引」が意識の本質であるとされているが、報酬の双曲線割引は別にそれほど深い意味を持っていない。双曲線割引が「不合理」であるいとうのは、「24時間後の報酬Aと25時間後の報酬Bでは報酬Bを選好するのに、報酬Aが目前に迫ると1時間後の報酬B以上に選好してしまう」という状況を表しているに過ぎない。例えば、「油ものをなるべく摂りたくない」と言いながらいざそれが目前に迫るとつい手を伸ばしてしまう、という状況を表現するのに双曲線割引モデルが適切だっただけだ。指数割引ではこのような「選好の入れ替わり」は起きない。
人間の意思の本質、つまり悩みや葛藤といった「調和の欠如」は、双曲線割引だから生じるというものではない。むしろ、「脳内で複数の報酬系が結合の強さを競いあ」うことが悩みや葛藤を生み、その「結果が報酬系にフィードバックされる」ことが意思決定の揺らぎや不安定さを生む。さらに言えば、このシステムは環境の変化に対応するために寿命が長い生物が進化的に獲得した形質であって、調和が無い方が生存・生殖に有利なのである。実際、寿命が短い生物の行動は後天的な学習の影響を受けにくく、行動の多くが遺伝子によって先天的に決まっている。生物は寿命に応じて遺伝と学習の最適な割合を選びとっているのだ。生存・健康のために合理化(最適化)された結果が「自意識の消失(全ての選択が自明になる)」というのは、やや疑問の残る設定である。

また、人間の意識(を生じ指せる機構)が進化の産物であることが、意味や価値といった形而上学的な概念に影響するというのも安い議論だ。
ドーキンスの『利己的な遺伝子』には「自己複製子」というものが登場する。「よりうまく自己の複製に成功する自己複製子が、その数を増やしていく」というモデルが、ときに利他的行動を取る生物の進化の過程を鮮やかに説明するのだ。遺伝子とは要するに自己複製子なのである。「遺伝子淘汰」は「群淘汰」に代って進化論の基本となり、人間に適用したバージョンとして進化心理学に繋がっていく。
ここでのポイントは、遺伝子は自己複製子の一種でしかないということだ。人間のコミュニケーションを介して広まる「意味・概念」といったものもまた自己複製子であり、ドーキンスはこれをミーム(meme:geneの文字り)と呼んだ。確かにヒトの生物学的性質は遺伝子淘汰によって決定されるのかもしれないが、意味や価値といった形而上学的な概念は少なくともミームの領域だ。そして、自己複製子の中で遺伝子に特権的な地位を与える理由は何も無い。よって、形而上学的な概念を生物学的進化の産物に過ぎないと捉えることは、自らがよって立っているはずの進化生物学の枠組みで見ても誤っている。

また、よりシンプルかつ重要な議論として、意識や意思がヒトの他の諸機能と同じように進化の産物でしかないという事実は、意識や意思を他の諸機能と同程度の価値しか持たないことを意味しないということを忘れてはならない。要するに、発生論的誤謬だ。「それがどのように生まれたか」と「それがどのような価値を持つか」は、端的に別の話なのである。
自意識の消失を死と同一視した老人たちに、ミィハはこう言って聞かせたのかもしれない。
「意識だって人体の一つの機能でしかない。他の機能は必要に応じて外部化するのに、どうして意識だけは体内に持つことにこだわるの?」
実際にどのような応答があったかはわからないが、老人たちは少なくともこう応えることができただろう。
「意識はそれ自体として価値のあるものだから、進化の過程で偶然手にすることができた幸運に感謝して、今後もこれを手放さないように最大限努力すべきだ」と。

自然科学の活動は確かに人間の直観に反する科学的事実を発見することがある。しかし、それが形而上学的議論に決定的な影響を与えると考えるのは自然科学の過大評価だ。古代ギリシアの時代からイデア界に思いを馳せてきた我々プラトン主義者にしてみれば、現実世界に関するいくつかの事実が新たに明らかになったところで今更騒ぐようなことは何も無い。存在から当為は導けないし、「それがどのように生まれたか」と「それがどのような価値を持つか」は別の話だからだ。著者は科学や哲学がなんであるかについて、若干の誤解をしていたのかもしれない。

とはいえ、典型的なテーマでありながら綿密な設定の上に随所に著者の知見が散りばめられた『ハーモニー』は、ストーリーの完成度では前作『虐殺器官』を上回るかもしれない。小説家としての地力があるからこそ、ど真ん中ストレートでこれほど面白い作品が描けるのだろう。(『虐殺器官』はもう少し奇抜で、ナックルとは言わないまでもシンカーかチェンジアップのようだった)
まさに、全体として「調和」の取れた小説だと言える。

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