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太陽系とわたし。

今日から水星が逆行するということで、夕方、惑星の逆行と水星の特徴について調べていた。
惑星や占星術の勉強はなかなか面白い。
もうちょっと詳しくなりたいな、と思う。
だが、地球に降り注ぐ太陽系の惑星たちのエネルギーを勉強しようと思っても、制御しようがないスケールの中で何が本当か何が正しいのかなどと考えても何も意味がないのではないかと言う気分になるのも事実で、断言できないものをどう扱って良いのだろうか、と言うところでストップがかかってしまう。まあ、体や心のこともそうなのかもしれないけれど。そして、だからこそ、惹かれてしまうものなのかもしれないのだけれど。

そう言われたらそうなんだ、と言う点で、占いや運勢とかって成り立っているのではないか、と思うと、やはりそれを生業とするのならばそういった雰囲気を醸し出している人が成功者となり得るのだろう。どうしても、知識プラス信じさせるオーラとかが大事な気がしてしまう。

もしかするとどんな分野でもそうなのかもしれない。


最近、なんとなく生年月日を入力して占いのサイトに登録してしまったからか、占い系の広告やメールがとめどなく流れてくるのだけれど、これはもう料金を払ってはまり始めたら完全に沼る(今どきの言葉を使ってしまったゾ)だろう、と思ってしまう。

あの手この手で、わたしの周りに龍がいるだとか、もう少しで運が拓けるだとか、返信したら課金が生じるシステムのメールが送られてくる。読んでいてちょっと現実と被っていると、「わ、やっぱりそうなのかしら」なんて気持ちにさせるものもあるのだけれど、頭のどこかで、「ああ、これと同じ文面が何人もの人のメールボックスに届いているのだろうなあ」と言う冷静な声がして、今のところ課金をするには至っていない。

わたしには同学年に同じ誕生日の友人がいて、どうしてもその子とわたしの性格も運命も違うだろう、と言う確信があるので、なかなか誕生日だけで色々言われるものを信じることができないと言うストッパーがあるのだ。だからと言って何も信じないわけではないのだけれど、断定されると反発したくなるこの性分。頼りたくても結局は疑い深くて選択は自分でしたいこの性分。

この癖、性分としてのストッパーは、自分を守るために働くのか、羽ばたく可能性までも止めてしまっているのか。変なところで外れたり、かかりすぎちゃったり。まあそれも個性として受け止め、愛せる人になれたらいいな、と思いつつ。
しかし今夜、とてつもなく外してしまったことをしてしまったような気もしている出来事がある。これこそ水星逆行が原因なのかもしれないというものなのだけれど、それは言い訳なのか、本当にその影響なのか。結局今を生きている中で、それは知る由もなく、どっちでもあるのかもしれない。

学び、知ろうとする行為自体はその分野の第一歩のはずなのに、行き着くところは「何を信じるか」ということになるのかもしれない、この曖昧さで成り立っている事実。

どちらにせよ、太陽系と比べてしまったらどう足掻いたって、わたしは結局悩み続けてしまうちっぽけな存在なのだろう。

ああ、だけれど落ち込んだり心が砕けるような結果が待っていたら、「水星逆行だからだ」と言える余白が必要なのかもしれない。
そういう意味では、知識は慰めになるのだろう。

いつの日か、全てをちゃんと、フィクションとしてまとめるのであるぞ、ミワコ。なんて、自分を鼓舞しながらこの経験も、生きよう。

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