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普遍性と不変性

果たして、一体全体、「変わらないもの」ってあるのでしょうか。

よく、変わることと変わらないことについて考えているけれど、
大きな変わらないもの(一日は24時間である、とか、一年は12ヶ月である、とか)の中に変わるものが散りばめられている、というのがおおよその答えなのかな、と思う。

同じ、単調な毎日の繰り返し、と思っても、すべて違う。
同じものを食べ続けたとしても、食べているものそのものは違うし、言うなれば3回洗ったパンツを次に履いたら4回洗ったパンツになるわけで、同じじゃない。

「同じ」と考えることが安心を生むことはもちろんある。あの人とは変わらず信頼し合っている、わたしたちの絆はなに一つ変わっていない。そう信じたい。そういうやつ。

けれど「同じ」と考えることが停滞と厭世感を生み出すこともあるわけで。
毎日毎分、「違う」を見つける新鮮さを実践することが、元気に生活する秘訣かもしれないとも思う。


まあなにはともあれ。


約一年ぶりに、何年も前からよく文章を読んでいた人の文を、昨日ふとその名前が出てきたから読んでみた。

その人の書くことはなかなか的を得ていて、生きることを諦めそうな人や、日々が苦しい人をたくさん救っていて、とても力強く勇気を与える文章が多かった。わたしも、いろんな名言を受け取って、ノートに書き写したりしたこともあった。会ってみたいと思ったこともある。(あ、実際にメールを送ったこともあったっけ)

で、しばらくもう一回りしたかなあ、という感じで、読まずにいたのだが、久々に昨日読んだら、まあ全然受け取るエネルギーが違っていて、それはそれは驚いたのだ。
以前の文章と内容はあまり変わっていないのだけれど、こちらが読んでいてとても胸がざわつく、というか、前に受け取っていたような気持ちを受け取れなくて、びっくりした。
きっと、厳しく言われることで鼓舞されたい状態の心理であればスッと入ってくるものなのかもしれない。きっと、わたしもそれに力をもらったことがあったのだろう。でも、今ははっきりと、そこにある怒りのようなパワーに圧倒されてしまう自分がいて、最後まで読めなかったのである。

もちろんその人は今でもたくさんの人に愛されているしわたしは何の批判もないので悪しからず。

ただ、この変化は何なのかなあ、と。

まあ、ただわたしもその方も、日々も年月も、変化を遂げてエネルギーが通わなくなっただけ、と言えば身も蓋もないのだが。
わたしだって、きっと、5年前の自分の書いたものを読んだら、うわーっとか思うのだろうし、なにが良い悪いの話でなく、変化というものを、こんなカタチで感じた、というだけなのだ。

でもそこから思うには、寂しいとか(もちろん実際の人間関係だとしたらお別れ、ということもあるだろうし、それは一時的に寂しさを伴うにしても)ではなくて、昨日の感覚の変化は、なんだろう、わたしもう同じじゃないな、昔のわたしよサラバじゃー!っていう感じで、それがちょっと嬉しくもあった。

そういうことを感じ取れる瞬間が、日々のあちこちにきっとあるんだろうな、と。

やっと、このごろ過去とサヨナラできてきている。
そんな、タイミング、天の計らいだったのだろう。

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