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私のキャリアと海外に来た理由

こんにちは!
クリエイティブディレクター・デザイナー・メンターのほりです。
デザイントーストというデザインスクールを先日立ち上げました。

海外になんで行ったの?どうやって暮らしてるの?
と聞かれることも多いので、
自分のキャリアや海外に来るまでを書きました!


1.学生時代

母校の芸祭

19歳。
地元、北海道で1年浪人し、第一志望だった武蔵野美術大学の空間演出デザインという学科に入りました。

エルノスト・ネトが好きで、インスタレーションアートをやるには彫刻科に行くべきだったなと入ってから気づきます。

とはいえ舞台美術や照明を学び、大きな空間ごと世界観をつくる仕事につきたい!とずっと思っていました。今しているデザイン・ブランディングのお仕事の原点です。

2.空間デザイナー時代

1社目、百貨店のディスプレイ制作会社
新卒で入りました。
全国の大手百貨店の、各シーズン毎に変わるディスプレイ図面を描く仕事。

百貨店内で、スペースをプロデュースしたりしました。
入社2年後、「一度くらいグラフィックデザインもやってみたい。難しかったら空間に戻ろう」と思い退社。

3.WEB・グラフィックデザイナー時代

2社目、大手広告代理店の下請け制作会社

グラフィックデザイナーとして、あっさり入れてもらえました。
なぜなら、そこはよくあるザ・劣悪環境制作会社で、
常に人手不足だったから( * ´ з ` )

※これは長くなるので割愛。思い出深い会社でした…いろいろ…

スポーツブランドのナ〇キや、キ〇ーピーのデザイン、
表参道の駅構内の広告ジャックとか、
渋谷スクランブルの大規模広告とか、

でっかい仕事ばかりでした。

100本案出しや、深夜2時からのミーティングなどに揉まれ、
デザインの基本はここですべて学びました

が、半年後、
突発性難聴、鬱、自律神経に不調をきたし、一回休み(3か月くらい寝込みました)。
「今まで4人くらいいたけど、ほりちゃんが一番勤務期間長かったよ」と言われたことが誇りです笑



その後体調を取り戻し、
諦めの悪い私は、またグラフィックデザインの道へ戻ってきました。

また不調になりたくないので、条件のいい仕事を優先して探したところ
グラフィックデザインより、WEBデザインの方が勤務時間等で条件がいい会社が多かったため、WEBの世界へ。(その時期はWEBデザイナーバブルでした)

3社目、制作会社のWEBデザイン部

制作会社のイラストレーターさんが描いてくれた当時の私の髪

ゲーム関係のアホっぽい面白デザインを作っていました。尊敬できる先輩がおらず紙に戻ることに。


4社目、社内報グラフィックデザイン
グラフィックデザイナーとして意気揚々と入社。
しかし、また受難が

入ってから一ヶ月で、私のいた部署がまるごとなくなくなることに。
正社員も派遣も、全員解雇

じゃあ雇うなよーーーばかーーー!!!


5社目、ブランディング系制作会社

これは最後となる会社です。
グラフィック・WEBデザイナーとして入社。

ここでやっと平穏が訪れます。とてもホワイトな会社でした。

半面、保守的な会社でもありました。先輩を立てるために、アイデアを出させてもらえなかったり、
私のアイデアが顧客に気にいってもらえても気づけばデザイン業務は先輩の方へ移っていて、作業をさせて貰えなかったり。

クライアントのミーティングに出たい、課題を知って、感想を直接聞きたい!デザインの力で売り上げを上げたい、もっともっとやりたい!と言い続け、企画を山のように出しても
お茶くみやお酒の接待要員には毎回指名されるのに、業務は任せてもらえず。

「君は電話の対応がいい、やっぱりお茶出しと電話は女性がいいね」「女性は花だから、ミーティングにいてくれるだけでいいんだよ」と言われた時は、空回りしていた私への慰めなのかもしれないけど、トイレで一人泣いた事も多かったです。

とはいえ、

総じて職場環境はきつくなく、心身ともに健康。
お給料も今までで一番良く、
「人生がやっとまともな軌道に乗ってきた感じか…」と思っていました。

定時で帰って絵を描く日々

その頃、プライベートでも周囲が結婚し、
私も付き合ってる人とそろそろ結婚という話も出て、
これ以上何もないくらい順調な、100点満点の日々でした。

「人生って、こうやって落ち着いて、終わりに近づいていくんだなあ。
少しつまらないけど、きっと幸せってこういうものなんだ」
と思いました。

会社でのクリスマスパーティー

4.転機

28歳の冬、転機が訪れます。

1-2年連絡が途絶えていた親友から、連絡が。
今、台湾で中国語を習いつつ、映像を作りながら日本語教師をしてる

正直、驚きました。

少し前まで、地元のCDショップでアルバイトしてた彼女が?
語学を学びながら、外国で暮らしている???
一緒に海外旅行に行ったとき、英語も全く話せなかったのに?????

話を聞くと、地元でアルバイトしながらお金を貯め、
中国語を独学で学び、色々なコミュニティで外国人と交流しながら、
準備をこつこつと進めていたようでした。


どかーーーーーーーーーん!!!!!!!


と、雷が落ちたようなショックを受けました。



私は、大学で卒業が近づいてきた頃
大人になるのは嫌だ」と思っていました。

大学院に行こうかな、とか、

会社勤めより、バイトで働き続けた方が楽しいだろうな、とか。

でも、気づいたら
自分がなりたくないと思っていた大人になっている、と気づきました。

お金をまあまあ稼げて、
だいたい定時で帰れて、
休日は友達や彼氏と会って、
また月曜日が来る・・・

いやいや、

当然、定時の仕事がいいに決まってるし、
お金が稼げる方がいいに決まってるし、
友達も彼もいて、

何が問題なの?!と、
制作会社で鬱になった頃の私なら言ったかもしれません。

※誤解してほしくないのですが、会社員として勤めながら、毎日楽しく仕事をして輝いている人もたくさんいます。
そういう人を否定する気はまっっったくありません。疑問を持つ事がないって、好きだと思える仕事・環境に出会っているということ。素敵なことです。

でも問題は、私にとって、その時の自分は
いつも本当の自分じゃない感じがしていて、毎日が輝いてなかったんです。

社会から「こうあるべき」と言われる存在を、無意識に演じているという感覚でした。

好きな服を着て、面白い企画を考えてるのに
なにかが、どうしても足りない感じがずっとありました。

彼女の行動を見て、

今の状態のまま、周囲から求められる自分を演じ続けて、
いつか挑戦できなくなって、新しいことに興味もなくして、どんどん鈍感になっていく、
と思ったら急に
耐えられない、と思いました。

自分の人生ではない人生を演じる日々が一生続いていく気がしたんです。

その数日後、色々調べ
「よしカナダに行って、就職して永住する!!!」
と決めていました。笑

でも英語はできないし、ワーホリは1年しかない。
その期間を最大限に生かすには、先に英語力をつけておこう。
ということで、ワーホリ前にフィリピンで、3か月英語を学ぶことに。

周囲には「逃げだ」「自分も行ったけど、行ったって何も変わらない」
と言われ、彼氏にはお別れを告げられても、
日本から出ずに一生後悔するなんて絶対に嫌で、行かないという選択肢は既になかったんです。

今も後悔はなく、本当に行動してよかったと思っています。

バギオで、台湾の友人たちと。

5.オーストラリア飛び込み営業時代

フィリピンのバギオはとても刺激的で、国際的な友達に恵まれました。 ですが滞在2か月後、父が亡くなります。
バギオは国際空港まで遠く、直行便もなく、葬式の途中にボロボロのTシャツでなんとか駆け込み、間に合いました。

「カナダにいったら、もし次に母や祖母に何か起こった時に、間に合わないかもしれない」と思い、行き先をカナダからオーストラリアに変更。

その1か月後、 私のワーホリ生活はオーストラリアのメルボルンで、空港で震えながら一晩眠るところからスタートしました。
ホッカイロを3つ貼っても、むちゃくちゃ寒かった。

宿も寒すぎてラップトップPCと一緒にに寝て暖を取り、ほぼ全トイレが常にゲ〇まみれ、自販機の缶ジュースが4ドル!
洗礼をたっぷり浴びました。笑

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最初の一ヶ月は、自分の勘にただ従い、
オーストラリアのあちこちをバックパッカーで移動しました。

メルボルン 
  ↓
ゴールドコースト
  ↓
バイロンベイ
  ↓
ブリスベン


バックパッカー宿では、オランダ人、インド人など色々な人と出会い、たくさん友人ができました。

日本よりも解放感があるように感じたのは、
TVでも男女が対等で、凛としたパンツスーツの女性を中心にしっかりと意見を伝えていて、
サブでフリップをめくりニコニコしているだけの日本の「女子アナ」とは確実に違ったという所もあるのかもしれません。

英語が下手なアジア人として、雑な扱われ方をする事ももちろんあったけど、
怒ったりそれは変だと意見をする権利が全ての人に平等にあるという印象を受けたので、軽んじられ自尊心を傷つけられる事は日本よりも少ないように私は感じました。

やっと、人間になったような感覚でした。

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最終的に、シドニーへ!

着いた直後から、アジア人が薬屋のカウンターで働いていたり
道端でアジア人と欧米人のカップルなどを見る機会もありました。

というのは実はどの都市も、語学学校にはアジア人も多いのに
お店等で白人以外が働いている光景を見る機会はありませんでしたし、語学学校でも白人は白人とつるむ、という光景ばかりを目にしていたから。

でも、シドニーは違いました。
ここだー!と思い、住むことに。

語学学校でも、友人が沢山でき新鮮な毎日がスタート。
ただ、予想はしていたものの、スムーズにいかないこともありました。
まず、聞いていた通り、現地ローカルの仕事を得るのは難しかった…!

レストランを見つける度に履歴書を配り歩いたけど
面談に呼んでもらえるのは日本食レストランばかり。(トータル100枚いかないくらいは配った)

たま~~~に電話をくれることはあっても、

自給が相場の半額くらい低かったり、
少し働いたベトナムレストランでは「お前は英語がわからないからサーブするな!」と怒鳴られ、シッシッとされて料理を渡して貰えなかったり。

あと足を激しくくじいて、
しばらく歩けなくなったりもしました(両足やった…)

普通に生活することがこんなに大変なのか、と身にしみて感じましたし、色々くじけることも多かった。

私は30歳近くでワーホリだったので、日本人で集まり毎週パーティーを開いているような大学生たちには負けられない、という気持ちもあったし、
英語を伸ばすために意識的に日本人の友人は作らずにいたので、孤独だったことも大きいと思います。
誰かに会う事や出かけることも億劫になり、英語で注文が聞き返されるのも怖くなって引きこもった時期もありました。

ただそんな中でも、週末はタイ人フラットメイトや韓国人の友人たちと、お肉と安い箱ワインを買って、公園で皆で集まった時間が救いでした。

左でピースしてるのが私

人種のるつぼの中で、アジア人同士のコミュニティは無条件に私を暖かく受け入れてくれ、お互いアルバイトを紹介し合うなど、どうしてそんなに優しくしてくれるの?と思うほどでした。
まるで本物の家族以上でした。
(ちなみに、全員そうではないですが友人たちの話を聞いていると、海外に長くいる人は家族と不和があったりする人も多く、私もそのうちの一人でした。
人に与えたり、深く関わることで、人生の第二の居場所を作ろうとしていたのかもしれませんね)

その時の仲間は、今も変わることなく
共にサバイブした戦友です。愛。

そんな一歩進んで二歩下がるような生活の中、

たまたま出会ったとある留学センターの日本人の方に
「君デザインやってたの?よければ今案件あるけどやってみない?」
と天使のようなお声がけをもらったことがきっかけで、
フリーランスとしてデビューすることに!

初仕事で、カフェのロゴを行ったのですが、
喜んでもらえて、自信をつけた私は、
日系カフェや語学学校にデザインの飛び込み営業をはじめました。

「デザインやってるんですが、よければポスターとかWEBサイト、作りましょうか?」

大学生や、スキルのない日本人ワーホリがほとんどの中、
差別化を図ることができたのか、デザイン案件を次々ゲットすることができました!!

これは、自分がオーストラリアに来た決断は間違っていなかったんだ、
と強く自分の自信になった出来事でした。


ちなみに、行動できる私にスイッチを入れてくれたタイ人の友人のことも話させてください。

タイの友人

私のフラットメイト達は当時多くが美大出のタイ人でした。
ある日「ペインターの仕事をもらったから、一緒にやろう」と誘われ、着いていくと
料理屋の室内の何もない白い壁を指さし、突然「絵を描いてみなよ!」と。

私はただの手伝いのつもりだったので、当然断ったのですが、
いいから、いいから、と筆を渡され。
私がもたついている間に、彼らは横で、下書きもせずにどんどん書き始めていったんです。

日本人ってまず
「失敗したらどうしよう?」
「恥をかいたら、誰かに迷惑をかけたらどうしよう?」
と思いますよね。

彼らのやり方を見て、肩に入っていた力が抜けて、笑ってしまいました。
「ああ、この自由さは日本人にはないな」と感動したし、
その時、チャンスをくれる人がいるのに、自分は何を怖気づいているんだろう、と思いました。

今まで何度も、チャンスを逃していたと思います。
失敗するのが怖かったから。

でも最初は、失敗なんて当たり前。
彼らに出会っていなければ、飛び込み営業するなんて考えもしなかったと思います。本当に沢山の正解があるんだなと毎日思い、自分と違う人たちに尊敬の念が生まれました。

まずはやってみよう精神に背中を押され、やってみる

6.アジアでノマド時代

着々と実績を貯めて、ワークビザを得るためのステップを踏んできた頃。
「ワークビザをとるのが今年から難しくなる」と政府の発表が。

私やフラットメイト達は、
「何が何でもオーストラリアで永住してやる!」というガッツ組でしたが、

IELTSが必要(無理レベル)
専門性の高い職種&マネージャー以上 (永住権を持たない日本人は、日本人でないといけない理由が必要。デザイナーは対象外)
・上を満たすに一番いいのはシェフだが、何年間もカレッジにお金を費やす必要あり(1000万以上)
・カレッジ後、数年はビザスポンサーの元で働く必要あり(ビザを餌にこき使われた挙句、利用するだけされて、ビザ獲得直前で解雇するような悪徳な会社も全然ある)
・もしワークビザがとれても2年くらいで切れる

これ……
ハードモードすぎない……………?

【お金 & 努力 & 運 】が全て揃って、
ビザにありつけるのは最短で5年は超えるだろうか。その頃は35歳。

カレッジで学習中にビザ取得が更に厳しくなったり、
職種が対象から抜ける事も。

そうなったら、
お金をドブに捨てることになるし…キャリアにもブランクができる…

うーん、
なら、

アジアで起業でもした方が全然いいな!!!!!!
オーストラリアに未練ないし!!!!!!!!( ^ o ^ )


と、
無理ゲーなオーストラリアには早々に見切りをつけ、アジアにうつろうと決意。
(アジア起業だって全く簡単じゃないんだけど、それくらいオーストラリアの永住権ハードルは高かった。お金や努力次第でなんとかなる、自分にコントロールの舵がある、というだけで希望は相当あると思っています)

自由の国

色々なバックグラウンドや
価値観を持つ人種のるつぼであるオーストラリアで気づいたこと。

・日本で正解とされるクリエイティブだけでなく、多様な立場や文化から見た視点での多様な価値観・デザインが面白いと思い、海外のローカル案件をやりたいと思った
性別や年齢で、やれる事や将来の可能性を誰かに決められたり、ジャッジ・制限されない、一人の人間としての力を評価されたい

そんな思いが明確になりました。

海外の案件を得て、将来的に日本から出るためには、「まず現地に行かないと何もわからないな」と思い
タイ、台湾、シンガポールなどアジア各国に飛び、現地の方々にまずお会いし話をして、色々な可能性を拡げることから始めました。

7.今、人生で一番楽しい

シンガポールのフレッシュジュース。230円!安い!

そんなわけで、私は今シンガポールにいます。(2020年末頃からコロナの影響で帰国)

オーストラリア前に日本で感じていた本当の自分じゃない感じ、毎日が輝いてなかった感覚は、今はありません。

好きだった古着も、バックパックに入らないので全て売ったし
話題になる、大規模広告やCMに携われるような大きなお仕事も稀です。

でも今、とっても満たされています。
自分にはなんでもできる、行きたければどこにでも行けると心から思えています。

日本にいた時は、このまま死にたくないと思っていたけど、
今は正直、いつ死んでしまっても悔いはないと思っています。
(もちろんまだまだやりたいことはたっくさんありますが!)



でももちろん、
人生が面白くなった一番大きな理由は、
海外という場所だけではありません。

海外で活躍するフリーランスの友人現地の会社経営者さん、スタートアップ企業、
「当たり前」が違う外国人の友人たち、日本の常識にとらわれない視点を持った人たちに出会う事ができたことが大きいです。

学生の頃イメージしていた「大人」になりたくないと、
海外でフリーランスを始めたようなものだけど、

会社に勤めていようが、
オフィスに通おうが、
日本にいようが、大人だろうがなんだろうが、

面白いことしてる人って、
どこにいても面白いんだ!!!!!


と、希望を持たせてくれる人に海外では沢山出会えて、いかに自分の世界が世界の中で、東京の中ですら、たった一部だったのと知りました。

シンガポールのコワーキングスペース。ホテルのよう。

だけど、重ねて言いたいのは、私は日本や会社勤めがたまたま合わないタイプだっただけで、別に海外に行くことやフリーランスになることだけが正解では全くありません。

これを書いた理由として、
「デザインがずっとしたかったけど、ハードルが高くてできなかった」
「海外なんて自分には無理だ」

と諦めてしまう人や、今の環境に悩んでいる人に、私のように行動して居場所を見つける人もいる、と知ってほしかったからです。

生まれた場所でも海外でも、ずっと同じ環境でも違う環境でも、田舎でも都会でも、日本でも海外でも、自分の気持ちに違和感がないなら
それって、その人にとっての正解です。

皆違って、皆いい。
むしろ、違うからいいんじゃん!って今は思えます。
私は日本でそう言ってくれる人になかなか出会えなかったので、ずっと疑問や違和感を持ち続けてきた自分は「自分は変なんじゃないか」「社会不適合者なんじゃないか」と、自信を持つことができませんでした。
今でも日本社会で、自分って普通の人にできる事ができないんだな、と自信をなくすことは多くあります。

けど、今ならはっきりと言えます。
自分の人生の正解は、自分が決めて良いんです。
人と違ったって、年齢を重ねてるからって、新しいことへ挑戦をを辞める必要なんかないんです。私が息がしづらいことを理解できないという人に、分かってもらう努力を頑張らなくても、いいんです。自分を傷つける人からは離れていいし、逃げていい。

世界は広いので分かってくれる人を探したら沢山います。

「人生を自分でデザインして、一歩踏み出した自分に乾杯しようよ!」
そして、一歩踏み出すあなたは最高だし、私たち仲間だよ、という意味を込めて
立ち上げたデザインスクールを「デザイントースト」と名付けました。(Make a Toast=乾杯!という意味です)

さて、こうやって振り返ると、よく地雷を踏みつつも、
同じかそれ以上、色んな人に助けられたり、楽しませてもらっていて、
貰ってばっかりですが…

何かお返しができるよう、ビッグになれるよう頑張ろう!


と思いながら、日々過ごしております\(^o^)/



そんな、
私のようになりたい!という人はあまりいないと思うけど…笑
よかったらデザイン学びたい人、キャリア相談含めお聞きするので気軽にカウンセリングどうぞ!

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