沖縄の空を見上げて思い出す、シェイクスピアの絶望
好きだった人が、家を引っ越すそうだ。そこは何年か二人で住んでいた家だった。
名義は私で借りていて、解約の手続きをした。事務的なやりとりをしながら私は泣いた。
最初にその事実を知って一度泣き、その夜にまた思い出して泣き、翌日の夜にふと思い出すと、突然涙が止まらなくなった。
問題なのは、私が一体何に泣いているかが分からないことだった。
よりを戻したいとは思っていない、というか、思えない。戻したい、なんて平和に考えられるくらいなら別れなんて選んでいないと思うのだ。
関係の未練に泣いているわけでも、事務連絡の淡々
とした雰囲気に寂しさを感じたわけでもなかった。
ただ、
温かい木漏れ日のような空気が流れる、私にとっては特別だった空間がもうこの世に存在しなくなろうとしている、
その風景を想像すると、とても寂しい気持ちに襲われた。がらん、とした「無」に戻る箱の風景。
誰かにとって特別だったはずの場所が、無に戻されること。
その一連の流れに想いを馳せると、ただただ悲しい気持ちになった。
私は、変わってしまうことが悲しい
と感じていることに気がついた。
あんなに当たり前だと思っていたことが、今はもう無い。
当たり前だった風景。縁。食卓。団欒。人々。感触。習慣。笑顔。四季の表情。吸い込む空気の香りや温度。
その時、必死に悩みながら考えていたことはもう過去になっている。
いくらその時に確信があったとしても、今は違う決断をしている自分がいる。
そうして愛し合って、傷ついてきて、一つ一つ成長をしてきた。
人生の一つ一つのシーンを振り返って、戻りたいとかやり直したいとかは思わない。
ただ、そうして変わっていくものなのだと認めることにまだ痛みが伴っている。
そして、その痛みを片手に抱えながら、目の前にある約束を眺める自分は、臆病さをもう片方に抱えているままだ。
こんなに臆病なままなのに、それでも人に関わって、愛したくなってしまうのはどうしてなんだろう。もうやめておけばいいのに、どんな性(さが)があるんだろう。
自分が嫌になっていくような気がしてまた泣いた。
明日は大切な友人の結婚式だ。沖縄で挙式をするので、数日前から前入りしてホテルに泊まりながら仕事をしていた。
たいした観光はしてないが、ホテルの窓からみえる朝日と夕日の表情を眺めるのが毎日のささやかな楽しみだった。
沖縄の夕日は虹色に輝いていた。ぼーっと眺めていたらあっという間に上から下へと夜の帷(とばり)が降りて真っ暗闇につつまれる。
夕日は沈むのを待ってはくれないから、自分から進んでその風景を見に行こうと思う。
愛する人も、愛することも、私の思い通りにはなってくれないから、だから求めていく。
毎日揺れ動いていて、予測もできず滑稽だなと思う。だから通じ合えた時に嬉しいんだと。
諸行無常という言葉がある通り、それも自然なことなのかもしれないなと沖縄の自然のなかでメソメソしながら、なあなあに感情の波を落ち着かせた。
そのうち、どうしてこんな性質で生まれてくるんだろうと冷静に腹が立ってきて、ふと、「生まれた時に泣くのは絶望しているからだ」という聞きかじりの言葉を思い出した。
詳しく検索すると、シェイクスピアの悲劇・リア王のなかで吐かれる皮肉な台詞回しがあったようだ。
こういうことを言いたくなる気持ちは分かるかもしれないなと思った。
どちらかというと、自分の阿呆さスペックというか、こんな条件でこれからもやらないといけないのかよ...という諦念に近い。
ただそれでも舞台は続いていくし、口を開けて誰かの演技をぼーっと見ているだけでもつまらない。
こんな舞台に上げやがってと悲しめるほど、私は深く演じ切っていたのだと思うことにした。
そう、きっとこの舞台を役者として楽しむコツは、演じ切るということなのである。演じ切るという不自然のなかで、自然をとらえることが、きっといいバランスの取り方なんだろう。
そんなことを考えながらも、きっとこれからも台本を破り捨てたり、アドリブでキレ散らかしたり、もしかしてヒロインが思わぬ脇役に恋をしてしまったりしないだろうかと、
半分身を委ねるような諦めの境地から、台詞を紡いでいることが情けないような気もする。
この矛盾だらけの自然の中で、演じ切るということは簡単には決めきれないと畏れる自分がいる。
長々と書いたけど、要は傷つき、自信がなくて、臆病になっている。それでも愛したいだけなのだ。
私は明日、大きな人生の舞台に立とうとする、友人たちの「除幕式」を見届ける。その時に何を感じるんだろうか。
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