憧れたハイラル平原はこの国にあったのか | アイルランドと私 #9
私の原風景
「あなたの原風景は何ですか。A4用紙4枚程度でまとめよ」
大学2年生、風景学の講義で出た、課題の一つだった。自分の人格形成に関わった風景を選び、どう出会い、どのように感じ、影響したのかを説明する。
私は近所の大好きな緑の遊歩道と悩んだ末、教授にハイラル平原で論じて良いかと相談をした。
教授は、頭を抱えたにちがいない。「ハイラル平原で書きたい。私の価値観に強く影響した風景ということで先生の定義する原風景と一致していますし、最後はアイルランドへの夢に収束します」と、現実の風景の話からゲーム画面へ飛んでさも滑らかに現実のアイルランドへ戻る、傍目には突拍子もない説得をした。その末、本来は実在する場所のみのところ、それで良いと許可を得た。面倒くさいからもうそれでいいよということだったのかもしれない。
先まで見渡せるだだっ広い丘と草原。主人公リンクに自身を重ねて、風を感じながらハイラル平原を駆けた子供の頃の記憶。大学1年生で初めて観光に行ったアイルランドには、同じような景色が待っていた。日本にはない、自然の大平原!だからこの国に行くんだと、そんなようなことをそれらしく書いた気がする。
それから12年、やっとこさアイルランドの地で仕事を得て、国中車を走らせる機会に恵まれた。旅の道中、色々な平原を見た。平原/草原をキーワードに、この国に子供の頃の夢見たハイラル平原はあったのか、振り返ってみたい。
アイルランドの平原
高校生の頃の私はすっかり、アイルランドは、放っておいても木の生えない国なんだと信じきっていたなと思う。
大人になり、植物についての知識も前よりついて、アイルランドに住み始めると、そうではないと分かってきた。アイルランドは潜在的(人間の影響を一切排除した場合)には、多雨林(降水量の多いところにある森)が成立するという。野となれ山となれの日本と同じく、森多き国なのだ。
渡航後、ボランティア活動や仕事を経て、かつて森であった草原を見ながらだんだんとそのことが分かってきた。
山肌を覆うBlanket Bog
アイルランドの特徴と言えば、ブランケットを山肌にかけたように広がる湿原(Blanket Bog)。今でこそ保全すべき大切な環境になっているが、これは実は人の活動が原因で出来た草原なのだ。
実はスコッツ松という赤松の木が、かつてはアイルランドの山岳地帯で森を作り山肌を覆っていた。しかし現在国内では絶滅している。放牧や炭づくりのため、後に産業革命の資材のためにこの松は伐りつくされ、その代わりはげ山に出来たのがBlanket Bogだ。
人為的に出来たものの、この山地の湿原は今では多様で独特な生き物を支えている環境であり、EU全体の保全対象にもなっている。その一方で、隣のスコットランドからスコッツ松を取り寄せて、山にもう一度森を作ろうという動きもある。
私もボランティアの一環で、スコッツ松の植樹に参加したことがある。この松の植樹の歴史は長く、1831年にイギリス諸島の王ウィリアム4世によって植樹されたスコッツ松林の名残と、記念碑的に当時建てられたオベリスクを横目に作業をした。今ある湿原の大事な部分は守りつつ、乾燥化している場所は森にしようというのが、アイルランドの主流の考えのようだ。
ニホンジカと羊
過去の大規模伐採に加えて、現代でアイルランドが森の国になることを止め、草原を維持しているのは、羊の放牧と、ニホンジカの増殖だ。
羊農業はアイルランドの重要な一次産業の1つで、その羊毛で編んだ名産品・アランニットセーターは、日本の古着屋でもよく見かけるくらい有名。中には悪い人がいて、羊のための土地欲しさに山に生える灌木を一掃するため、夜な夜な違法に野焼きしたりするそうだ。
私が渡航した直前も、ダブリン南部の山の大部分が焼かれる事件があったという。ステイ先の道を、消防車が9台ほど走っていったとホストマザーが話していた。私も実際、登山中に黒焦げになった山肌を見かけた。
それから、過放牧。放たれた羊たちが木の新芽を食べ過ぎて、一向に森が育たないのだという。一方で、重要な湿原や草原の保護地区では、それらが森になってしまうのを防ぐため、ポニーや馬を放牧し、木の芽を食べさせコントロールしている。北海道東部の海岸草原も、馬の放牧によって維持されていた歴史があるので面白い。
つまり、食べ過ぎてほしくない、森になって欲しい場所と、食べ過ぎて良い、草原のままでいて欲しい場所があるということだ。
そしてニホンジカ。アイルランドなのに、日本の鹿とは、何だか不思議な巡り合わせである。かつてアイルランドの貴族は、コレクションあるいは狩りのターゲットのため、彼らの荘園にニホンジカを輸入した。英名はJapanese sika deer(Sika deer)。頭痛が痛いのような名前である…。
現代では狩猟者も少なく、また天敵のオオカミも絶滅してしまい、野に放たれたニホンジカはのびのびと産めや増やせや状態だ。彼らはその圧倒的な数を以てして、草地に芽吹いた若木を食べ尽くし、土地は森にならない。面白いことに、日本の増えすぎたニホンジカと全く同じ理由と問題に、遠く離れたこの地の人達も、頭を悩ませているのだ。
ちなみに日本で本来の森になれなかった場所は、代わりに大抵ササの草原になる。しかしアイルランドにはササがない。じゃあどうなるんだ?何が占拠するんだ?と疑問が湧く。
答えは、ワラビの草原だ。なんとアイルランドの山肌には、山菜でお馴染みあのワラビが大跋扈している。林学に詳しい友人に確認すると、やはりワラビはその界隈では「ヨーロッパのササ」と呼ばれているようで、同じポジションにいるようだ。
余韻と余白の地
ここまで見ると、あれ?アイルランドに自然の大平原はなかったのか…となるが、元々は森多き国と言えど、やはり自然と草原が維持されている場所もある。氷河が這いずり地面をえぐり、その窪地に出来た湖が元となっている湿原や、氷河によって土壌が剥ぎ取られ露出した石灰岩台地。酸性で加湿だったり、アルカリ性で乾燥しすぎていたり、つまり、木々が森になるには極端すぎる環境。これが揃うと、そこは自然と草原になる。
中でも、アイルランド西部にあるバレン高原(The Burren)やさらにその西に浮かぶアラン島に広がる石灰岩の原っぱを見ていただきたい。何と胸を締め付けられ、同時に駆け出したくなる侘しさだろうか。なるほどアイルランド音楽のあの切なげなメロディは、こういった風景の情緒から生み出されたのだ。
6年前、アイルランド西部地方に高校からの友人と観光へ言ったことがある。友人はフランスやスペインなどを旅行し、私よりもよっぽどヨーロッパを見て回っていた。そんな彼女がアラン島に共に降り立ち、要塞ドン・エンガスに向かう際、霧立つ岩盤の原を前に、「ああ、なるほど。これがずっとみはらの話していたアイルランドの良さなんだね」と、何かを感じ取り、噛み締めるように言ってくれたのが忘れられない。
パリやバルセロナといった華の都を知る彼女が、このただ飄々と侘しい荒蕪の地を歩き、「良い」と評してくれたことが、この時の旅の何よりも嬉しかった思い出である。見所が多く、嬉しい忙しさのある都市部とはまた違う良さだ。何もない、果ては霧で見えない。余韻と余白の多い地。だからこそ、その空白を補完しようとするように、ゆっくりと自分の胸の内と向き合わされるような、頭の中の思いが溢れるような、そういった趣が、ここにはある。
リンクと私、ハイラル平原とアイルランド
高校でアイルランドを目指してから数年経ったある時、ネット記事で『ハイラルは平原の他に、火山、氷原、砂漠などがあり、これに現実で一番近いのはイタリア』と読んだ時は「ここまで来てイタリアに路線変更か?!」と冷や汗が出たこともある。イタリアも素晴らしい場所だけれど、その頃はすでに「アイルランドでリンクになる」という道がもう引き返せない程、私を魅了していた。
そうやって長年、アイルランドにこそハイラル平原があると決めてかかって執拗に追い続けたわけだが、いざ現地に降り立ち、見聞きすると、色々な事情が分かっていった。アイルランドの大平原は、自然のものもあり、また人為的な影響の結果のものもあり。草原であることを望まれている場所もあり、森に戻さんとされている場所もあり。ほとんどは、森の大伐採後に人為的に維持されてきた牧草地である。
がっかりしたとか、そういうことはない。ハイラル平原だってアイルランド同様、伐採や放牧の結果の草原と考えてみるのも良いかもしれない。しかしこれに関してはそういう当てはめをすれば得心が行くものなのか。ハイラル平原やリンクという架空の存在を現実に求めている手前、そこに明確な定義を置かず、もっと概念的なものだけが抽象化して残ってきたはずだ。
その結果、現状、私の出来る範囲で最大限「リンクになる」という概念に挑戦出来ていると自分では思っている。しかしこの経年的に収まるところに収まった夢を言葉にして、他者へ説明するとなると難しい。「ハイラル平原に憧れてアイルランドに行く」と大学で言い、「アイルランドに行きたいから北海道に学びに来た」と院の面接で言い、「リンクになりたいからここに来た」とアイルランドの人々に言い、私の言葉足らず故にほとんどの人に首を傾げられた。
どう表現すべきか、ストンと腹に落とし込まれた気がしたのは、司馬遼太郎「街道をゆく 愛蘭土編」の引用になるが、『須田画伯と"アラン島"』と銘打った章を読んだ時であった。
禅僧・道元の生き様を好む画家・須田剋太は、ある時アラン島の情景を聞き、限られた土壌で生を営む人々の慎ましさに、いたく感銘を受けたという。
あの時から今まで、私の中で現実社会とゼルダの伝説の世界はない交ぜになって存在し、リンクもハイラル平原も私の人生の根幹になる冒険と挑戦の象徴として確かに息づいている。こんな解釈は、自己満足であやふやすぎると思っていたところに、須田氏の哲学用語としての『心の”アラン島”』が響く。私にとってはこうである、の力強さを感じた。
リンクに出来て私に出来ないことは山ほどあるし、アイルランドはハイラルと違って活火山も氷原もない。自然の大平原もそれほどなかった。今思えば逆に日本にだって草原はあるし、雄大な日本アルプスや北海道での登山にも、生きがいを感じる、忘れられない冒険が沢山あった。
それでも私のハイラル平原は、今アイルランドにあるんだろう。リンクと私、ハイラル平原とアイルランド、どちらも全く一緒にはならないことは分かっている。けれどこの憧れが、卑屈で臆病な自分に悩んでいた私を、前へ前へ突き動かし、心を満たしてくれていることだけは、確かだ。きっといつか、うまく言葉にも出来る。けれどまずは、心に従い、胸を張ってこの平原を進もう。
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