「時間」なんてない?
『スファエラー松果体をひらく5次元イメージで時間と空間を超えていく生き方』を読みました。
この世界はゲームに例えられたり、ゲームの世界である可能性のほうが高いということもよく見聞きするようになりましたね。
日常の中で、この世界ってゲームなんだとリアルに感じながら生きている人がどれほどいらっしゃるかは分かりませんが、そうらしいですよ(笑)
ゲームの世界かどうかの議論は置いておいて。
この本を読んで、わたしの中で、整理がつくこともあり、おススメしたくなったので書いてみることにしました。
科学は客観だから信用できると思いがちですが、科学も主観であり、仮説でしかなく、だからいくらでも、何度でもひっくり返るのだと、別の本で読んだことがあります。
つまり、この世界は主観という思い込みが大前提で創られた世界。
自分が客観だと思い込んでいること、正しいと思っていることは、実は主観(思い込み)でしかないのだと言うことは、常に心にとめておきたいと改めて思いました。
そして、自分がどんな大前提(思い込みや正しさ)を持っているのかを知ることが、ゲームから自由になる第一歩。
つい、忘れちゃうので、何度でもこうやって思い出したいと思います(笑)
時間はつながっているように錯覚しているだけで、実は、最小単位のコマがあって、そのコマとコマの間は途切れているということです。
すべての現象は原因があるから結果があると思い込んでいますけど、本当はつなりなどないってこと。
途切れずにつながっているという大前提があるから、原因探しをしてしまうけど、本当は「ない」。
過去世が、カルマが、徳があるから、あれをしてしまったからetc.
それと「今」とは関係ないってことなのです。
著者が言う「ゲームから自由になる」とは、自分の大前提(思い込み)に気づき、当たり前につながっていると思い込んでいるコマとコマとを断ち切り、他のコマにつながったらいいし、それができるってことかと。
まずは、自分の思考の大前提になっている思い込みに気づかないと、他のコマも視えてこないのだと思います。
観測するモノとされるモノを分けることはできない、だから、「自分が見ている世界は、自分が創っている」のですね。
まさに、「ひとりコントの世界」という訳です。
けれど、思い込みがなければ、思い込みに気づくという体験もないわけですから、この地球に生まれたら、まずはゲームを楽しむために、親や社会が教えた正しさを思い込む必要があったとも言えるのかななんて(笑)
10代の時に、「わたしで全てを終わらせるんだ」と思ったことがあります。
このときは、仏教用語でいえば、先祖からの宿業(カルマ)を自分が全て引き受けて、抱えて、飲み込んで、「新しい別の世界」に行くという意味かと思っていました。
けれど、ここ3年くらいで、そうではないような、何かが違うのだけれど、説明できずにいましたし、最近では正直、忘れてもいました。
けれど、あのときの感覚の言葉への翻訳が、かなりまとまりました。
「わたしが全て」とは、そもそも見ている世界は、わたしが創っているのなら当たり前とも言えますし、「終わらせる」とは、一連の流れやつながりがあると思い込んでいるコマとコマの間に気づき、切断することで、今までは見えていなかった新しいコマにつなぐことなのだと。
「新しい世界」とは、来世などではなく、今・この瞬間にあり、それは当たり前だと思っていたコマとは別のコマにつないだ先の世界のことなのだと、なんだかしっくりきました。
そして、この本で書かれていることや量子力学の話も、教えられた何かに過ぎず、唯一の正解ではないので、これからまた、いくらでも書き換えられていくのだと思いますし、自分にとっての正解にたどり着くための材料であり、材料でしかないのだとも思います。
だから、何かを学んだとき、いったん、それを全て捨ててみたらいいんじゃないかと。
一旦、全て捨てた上で、自分にとってやっぱり必要だと感じたり、自分の中にもあったと思えるものだけを拾って、つなぎ合わせて、新しい何かを創っていったらいい。
なぜかと言えば、わたしは、21歳の時、親の信じていた信仰を捨てたときから、知らず知らずのうちに、これをしてきたんだなと分かったからです。
そして、2020年の7月21日は、自分の人生がこれまでの延長線上ではなく、大きく切り替わったと感じた日でした。
そこから、わたしには無関係だと思っていた世界が目の前に現れ、それまでならわたしの周囲にいなかったような人とも次々とご縁がつながってきました。
あれがまさに、コマとコマとの間を切断して、別のコマにつないだ瞬間だったんだなと。
でもね、なかなか捨てられないのですよね。
そのためには時に、「絶望する」ことが必要なのかもしれません。
中途半端ではなく、「絶望する」こと。
絶望すれば、諦められます。
本当に諦められたとき、新しいコマが視えてくることもあるのだと。
あくまでわたしの経験ですが(笑)
著者は、第5章で『ワクワクの落とし穴』についても書いています。
最近よく耳にするワクワクすること、楽しいの感覚を道しるべにすることについて。
自己紹介にも書いたように、わたしもそれを大切にしたいと思っていますが、その一方で「これが楽しいの!」「ワクワクするー!!」という言葉を見聞きするときに、ムーンとする感度も高くなったような気がします。
純粋に楽しい!ワクワク!!ではなく、不足感からのワクワク(という思い込み)の場合もあるから、ムーンとしていたのだと分かりました。
そうは言っても、これに気づくのは難しいですし、頭で分かった気になってもやめられなかったりします。
これは本には書いていませんが、だから、それには、「絶望する」ことが時には必要なのだと、わたしの経験からは思ったのです。
YouTubeで坂庭鳳さんという方が、「絶望が足りないんだよ(笑)」と発言されていて、なるほど!おっしゃる通り!!だと思ったのです。
書籍の感想とは逸れてきそうなので、この「絶望」については、別の機会に書くタイミングが来たら。
見えないものを視る第3の目(第6チャクラ)は松果体にあるとは聞きますが、それが後方を向いているとは、初めて知りました!
後ろが視える。
松果体が開くと、世界がひっくり返るような体験ができるかもしれませんね。
1つの思い込みに付き、いちいち絶望しないと気づけないなら、身が持たないし、わたしは絶望の経験はもう要らないかな~とも思うので(笑)、そうまでしなくても、松果体が開くことで、軽やかに切り替わっていけたらいいですよね。
わたしのおススメしたい電子書籍『スファエラー松果体をひらく5次元イメージで時間と空間を超えていく生き方』はこちらです。
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