落雷
大型の台風が押し寄せるという日、既に雨粒が強く窓を叩き、稲妻が光っていた。
もう何十年も経ったというのに、電車の中でふいにあの人のことを思い出した。
その人は、入院患者さんだった。
韓国人の方で、特徴的な強い口調でお話しされるものの、嫌な感じはなく、むしろ明るい印象を受けていた。皆に愛されていた。
ところが検査結果を知ってから先、彼女は一変した。
医師の説明を受けている途中で発狂したかのような金切声をあげたことが、その始まりだった。
「ぎゃああ!あんたら日本人がいじめるせいで病気になった!」
獣のような恐ろしい声だった。
乳癌の告知だった。
「でも、手術をすれば状況は良くなります!」と、医師が説明しようとするのだが「やめろおう!手術中に殺す気だろう!信じるもんか!」と埒が明かなかった。
抗癌剤も拒否。病院を飛び出すように退院したものの、数か月後、また救急車で運ばれてきた。痛み出したのだ。
美しかった彼女の容貌はすっかり変わってしまい、性格も変容した。
治療のために近づくスタッフを殴る、髪の毛を掴む、噛みつく。
しかも、治療を拒否し続けてきた創部が大きく隆起し続け、内側から花が開くように肉芽が丸見えになって来た。
しかしガーゼをあてようと近づくと、奇声をあげ、近づく人の皮膚が破れるほど強く引っ搔いていた。
弛みなく出ている浸出液をなすりつけられて叫ぶスタッフもいた。
周辺はその浸出液の臭いが充満していた。
さらに、死が近づけば近づくほど勘が鋭くなり、その人が何を言われるのが一番嫌なのか?を察知しては鋭い言葉を投げつける。
体型を気にしている人には体型の事を言い、懸命に優しい人間であろうとする人には「偽善者」と罵った。
とうとう彼女の元へ行く者が居なくなり、とある気丈なナースの先輩と私のみとなった。
さあ、やりましょうか。
その時、一瞬部屋の灯りが消え真っ暗になった。
停電?
稲妻がピカーっと光り彼女の瘦せこけた青黒い顔を照らした。
同時に彼女が、肉の花が何層にも開いた自分の胸を指さし、先輩の目を見据えてこう言った。
たった一人の頼みの綱だった先輩も「嫌!嫌だー!」と逃げ出してしまった。
部屋の電気が再び灯った。
一人黙って傷の消毒をしていたが、臭気を放つ血性の浸出液が拭いても拭いても滲み出て来る。
「どうして逃げない?」
そう言われてみて改めて思う。この人は、個々のスタッフが一番嫌がる言葉を投げつけて来るのだけど、はて、私はいつも何を言われて来たのだっけ?
察知してのことなのか「何が一番怖いんだ?」と訊かれた。
「よく分からないんですよね。怖いことは向かって行って乗り越えて来ましたから。」。
すると、遥か昔、出会い立ての頃に聴いた質の声が聞こえた。「そうか。」と。
春の雨のように優しいその人本来の声だった。
「私も立ち向かえば良かったなあ。」
手術の事だろうか。抗癌剤治療のことだろうか。それとも、もっと前の時代、私が知らない彼女の人生でのことだろうか。
それからのその人は、とても穏やかに日々を過ごされた。スタッフもまた、その人の元へ一人二人と足を運ぶようになった。傷つくことを恐れずに。
そこからは、早かった。
永遠の眠りについたその顔は、美しかった。
2022年、豪雨が打ち付ける電車の中で、私はその人のことを思い出し、回想していた。
突如、電車の中の電気が点滅する。
あれ?
真正面に座っていたのは、彼女だった。ずっとそこに彼女が居たのだ。
点滅する照明が彼女の顔を照らす。
美しい時代と、やつれ果てていた時代の彼女の顔が交互に現れる。
ガタンゴトン、ガタンゴトン・・という音と、時折キー!という金属音。しかし、確かに聞こえた。
と鬼の形相で。
しかし次の瞬間、照明がパッと明るくなり、人々が次々と立ち上がる。駅に着いたのだ。
彼女は恐ろし気な顔を解き、何と、私の真正面でいたずらっ子のような笑顔を見せてペロリと舌を出した。
何?
立ち上がる彼女を慌てて追いかける。追いつけはしないということを分かっていながら。
身動きすら取れるはずがない人混みの中を、彼女は恐るべき速さで進んで行く。それはそうだろう。ある意味実体は無いのだろうから。
追いつけない。もう、あんなに遠くへ行ってしまった。
しかしある瞬間、人々の背中越しにこちらを振り返る彼女の顔が見えた。口が動いている。
今ならハッキリと答えられる。
あなたが、ずっと苦しいいままなのか?ということだ。今も痛いのか?この世は、辛くて痛いだけの場所だったのか?
私は、いつも、人々のその分からない未来が怖かった。果たして苦労は報われるものなのだろうか?と。
また雷が鳴る。
お願い。教えて。
彼女の白い顔が少し笑って、消えた。
え?
良かった!ありがとう!
しかし、ずぶ濡れで帰宅した私のポストには、検診の再検査を促すお知らせが入っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?