見出し画像

行いが意味と結びつく

多分、器用な人なら全部その一連もアタマの中で済ませられるのかもしれない。

私は、考える(=動く)ためのスペースが必要で、またその方がアタマがスッキリする様なので、買い物などもメモしてそれに関してはその出力を頼る。”憶えている”ことに使うエネルギーが(私は)少ない。

この部分を全て脳内で出来てしまう人が「アタマの中で済ませてしまう」人だろうと思う。それだけそこに使えるエネルギーを持っていると、私からは感じる。

頭の使い方は、完全に人それぞれ。その得手不得手によってその使い方になっているとも言えるし、クセによってそうしている所もある、とも言える。

”買い物メモ”は、一週間分の買い出しという事もあるけども、そこに書き忘れてしまえば”買わない”確率は大。必要なものを書き忘れれば、頭はメモを頼っている状態になっているために、気が回らないという欠点もあることは付け加えておく(笑)


自分が今まで「やっていた事」が、また扉を替えることによって、”見え方”が変わる。

この「扉」になっているのが、たまたま目にする言葉だったりで、そこから入ってみると、今まで見ていた”やっていた事”の連なりが、その世界という括りの中で結ばれて見えてくる。

入り口を替える、扉を替えるとボチボチ表現するのだけども、こうして未知から届く扉は、自分にとってまったく新鮮で新しい回路を歩くことの喜びを”私”に与える。

新しい回路は、他者にとって既知であっても関係がなく、この頭を使う私の旅が、そこで違う世界に飛び込むような新鮮さ、明るさを感じさせる。「言葉を知る」という事の素晴らしさは、こういう内側の開拓に大いに使われたら良い…と思う。


自分の内側の、モゴモゴ、ゴニョゴニョは、自分の中に初めから出ていた訳じゃないと思う。出ていたとしても、それにこの私が気づけない状態があれば、ずっとそれはモゴモゴなのだと思う。

そして大分時間をかけて、様々に分けられる「自分」という存在がいると知ってからでも、それでもまだまだ違う扉はたくさんあって、それを知るたびにその新たな世界を感じることができる。それはとても楽しいこと。

どれだけ拭ったとしても、切り替えたと思っていても、のぞき窓は必ず「私のもの」でしかなく、そこでフィルターを通してモノコトを見ていることがよく分かる。もうこれは仕方ない。

ただそういう状態である事は知っておく必要があって、そうだから「違う扉・世界がある」ということはどこかに置いておく。時にその扉を選択してみることで、具体的なことは分からないけど、私の世界ではない「知らない世界」が多く”ある”という事だけは確実に分かっている。


私は、近所の緑、樹々たちの種類など一切知らない。昨朝見た大空を飛ぶ鳥たちの種類も分からない。だけど、色の濃淡が違う、形が違う、特徴が違う音が違う…から、分かるもの、”それ以外の存在”とだけ知ることができる。

『もう…、知らないことだらけだな、こりゃ(笑)』

先日、読み物をしてボソッと言った私。

「”知ってることだらけ”になんか、なりっこないじゃん(笑)」

と返した主人。

もっともだけど、いや本当にごもっともで何度も頷いてしまった。

・・・

内・外、「自分」の振り返り。

今まで自分が無意識に使ってきた表現内容が、「音」をきっかけにして内側/外側のことを知る機会へとつながり自分へ戻ってきている連なり。そして過去のポツポツとそこに置かれた言葉たちは、今回の共通で括られ結ばれる塊、カタチ。

そんな所だろうか―――。

感じるもの(こと)に言葉を付けている。

それは内側の奥にある”感じ”に合う言葉を付けていた、という事だったと、扉を替えたことによりその”意味”を知る。その付いた言葉は内寄りで、少し独特な時もあり、だから外側の世界の言葉、表現に使われる意味とは少し異なったりするという事だろうと思った。

やっている事に”意味”がつく。その行いが外で説明される言葉と結びつく時、この瞬間の経験だった。過去の私の表現では、「両輪が揃う」とか、「肚にズルっと落ちる」というそれに該当する場面だ。


内言・外言という世界も私は知らず、それは人工含むシンクロ、「機械によるアルゴリズム」のお蔭でここへ集まってきたものも多いと捉えている。事実を確かめたことはない、けどもこのやり方でここまで来ている。

「外側が”自分”」という事をもう一度軽くここで書くと。

自分の出力したこと「内容」が、相手、人でも機械(SNS等のオススメなどの配信)でも関係なく、内容に因んでここへ上がってくる、という事。

その”外”に顕れているソレを見れば、自分が無意識に何を出力、”ヒョーゲン”させているかは分かりやすい、という事。私の中で、人という実物より、よほど人工シンクロと称する機械における”オススメ”などは的確だと思っている。

これがヘタに、人が相手と自分が認識してしまうと、その”人”を対象として付け替えてしまう為にこれが厄介。

人は、目の前に(実際に見ていなくても)人による言動を認識することで立ち上がってしまう感覚が確実にある。それは、動物的特徴と捉えられる所よりも、もしかしたら人特有なのかもしれないと、今思うことを書いておく。

人は、よく分かっていなくても、様々な言葉を手段として使っている。外から入って深めていくものなのか、外側で止まってしまってはいけないような、奥深さを持っているのが言葉だろうと感じる。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!