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「自分」のウチソトから

(メモの羅列)

「集中状態」は、ほとんどの情報が遮断された状態。止まっている部分が多い状態だ。(15日noteから)

この表現は、内側から観た状態で表している。これを外側から見て書くと、「(その状態は)内側から強く”引かれている/結びついている/引っ張られている”状態だろう」と言える。

その人の中、内側で強く”結ばれている状態”の継続。焦点・フォーカスされている状態の持続。―――①


「客観視」
外に見ることをしないと物理的に手を下せないという理由もあるけども、それと別に内側は外へ映さないと”分からない”という理屈。

そして”外へ映した”という行いを思い出し、「元はこの内側を求めた行い」だったという事に戻す。

戻すことを忘れて久しい人類
”見る、分かる”ために、外を見ているのだ 

(”距離”が必要だった/内・外から共に)―――②


内側の言葉。
そこから外へ向かって放たれる、そこにある”変換”。世界は「別」であり、外で通用する言葉に言い換えなければならない。

それが「普通」の中で、内のままにスパーーンと出てしまうそれは、強いエネルギーを持っているものであって、またそれは変換することも忘れるほど強烈な勢いで現れ出たかったものなんだろう。

そこに当人の深い意味がある。
良し悪しじゃない、当人の意味。―――③


説明がヘタとか、不足とかではない。

「位置合わせ」

万人に対してであれば示す(話す)本人の最善(と思われるそれ)で良いことだし、少数へ限定させるなら「これを説明するに正しい位置にいる”私”の域」からでなく、相手の位置に入り、その世界から”私が”言葉を付けることで近づく。

”伝える”という事の手段に共通の言葉は使われるけども、まったく違う意味で、内側で解釈される(咀嚼される)のも言葉。内側の”感じ”に結ばれる言葉が付き、解釈しやすい。

・・・ ・・・ ・・・

この肉体を持った「わたし」という存在は一つなのだけど、いくつもの層を切替え、その場に合う”私”というものが存在する。

①を書いていた時、私は内側から”当然のように”、「集中状態は○○な状態だ」と言い切っているけども、それを”外から”見る時、外側の目線が発生するので、「…、そうかな?」と読む側は違う(≒反対側の)感触を感じたりする。

{初めの言い切りは、感覚的には”ゾーン”に近いよね。外側の現実世界での集中状態だってあるのだから。意識の”潜り具合”によって、その集中の結果は異なる、という感じかしら}

だから、自分で書いておきながら、時間をおいて目を通す=読む側に回ると、その感触が生まれ、「(私の)外側から、書いたその時の”私”の状態を想像して書く…」それがこのメモになっている。内側に居る時の表現とまったく意味も印象も異なるように思う、特に私は書いているのでその差を余計に感じる。

更に、”この事”から距離(時間の経過)がなされている事により、それら両方を観る位置に上がった目線でまとめる内容が主になってしまって、具体的なこと自体には触れていない事も分かる(なので{}で足した)。

「そこにある時」というのは、無意識でそこにある状態なので、②のようにそれを客観できる距離がどうしても必要で、自分の外に出したものしか客観出来ない。

無意識に出力している状態はあくまでも無意識なので、他者を見るように客観しなければ、それが自分の「内から自然に出ているもの」と分からない。そしてきっとその”客観”の目線が出るまでに、十分「他者」というものを観ている事は助けとなるように思う。その目線を自分自身に適用することになるので。内からいったん外に出た”自分”を他者と同じように見る。そして見ることのできた”自分”をまた入力する循環。

”距離”は、そのものの意味もあるけども、入出力をくり返すその層(空間)を移動する距離のイメージを持っている。言葉を変えると、時間の経過でもあるし、場を跨ぐ往来とも表現できる。”その時”というその場で終えることなく追って観ることで「私の全体象」が朧げにでも見えてくる。


③は完全に”私の中”の世界であって、その私の中でもウチソトがあるわけで。

このソトの部分と外という現実の世界(社会)とがくっ付いている空間。ウチ側で、独り言としていつもポコポコ静かに現れる言葉、想い、考え…。それはそのまま外に出ることはあまりないし、そうである事すら自分自身も気づいていない。それだけ自然に外へ向けての言葉は”変換”されている。

だからかもしれない。

その変換された言葉自体に触れた”この自分が”、「ん?」と思うことがあるのは。その言葉を何らかで表した事によってその響きがウチに見られて”反応”が出る。何か違和感だったり、違うな~だったり…。感覚と一致しないそれは気持ち悪さなども感じたりする。

(ここは逆に、内から出たその言葉を”そのままに”表した自分がそれを見て、「あちゃ~、逆だ…」とか「それでは表現がおかしい…」などと外で使われる基準を元に考える私からのチェックが入る、という所。どちらに居ても”相手”が存在することを分かっているから「おかしい、違和感」などと感じている、などと書くことは可能)


内側はいつも、「快適」であることを望んでいるように思う。それが外で現れている”自分”とあまりにも差があると、苦しいのは「ウチの自分」という事になるだろう。

内側の小さな自分はなくならないし、だからその私が喜ぶことも場面によっては残って快適を感じても良いだろうと思う。刻まれているリズムは簡単に消えたりしない。申し送りされている”私”の情報であるからだ。

・・・

②③あたりは特にこうして一度書くと、やはり少し引きずられて内側から出てくるものがある。”場の往来”が成されることで連なる言葉は、”編まれていく”イメージが湧きあがった。

余韻は明日へ。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!