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深い”自分”との出会い
物心ついた頃に、何となく「自分」という人は”いる”と、自身が自覚する・しないは様々なんだろうけど。
出来上がるんだよね、明らかに自分は。
持って生まれた血筋もあって、それは意識などせずとも、家族とそっくりだなぁという様な、「同じである事」にビックリした経験も私にはある。
親の影響を受けたという”自覚”のあるものなら、それを問う事はできるけど、無意識に知らずに同じ動作をする…、なんていうのは、
ずっと一緒に居るんだけど…
”何だろう…不思議な感覚を持った。
人は既に(多くは)「現場から直に拾う」ということが、出来なくなりつつあるのか…🤔
情報(空間)から認識することが優位なアタマになっているような…。
そんなイメージが湧いた。”
これはいつだかにポストしようとして止め、こちらに保存しておいたもの。
初めに”想う”ことによって出力、それを自ら目にする事により更に角度が増えるため、あーでもないこーでもないが続く。
”いつも”の先に手を伸ばす
循環、回し方の”逆”。
これは私の中のイメージだけども、それは、「人はどこか、その時その時の出来事を繋げて考える所がある」からだと思う。
意識された事でなはく、モノコトを追う時、結ぶ・連ねるという形で捉えてしまう…、たとえまったく無関係のコト同士だとしても。
だから、使われる言葉はあくまでも”表現”であって、私の中では動きの一連が「その様に感じる」というもの。「それはつまりどういう事か」という
”私”のカタチで見る
予想よりも雲が多く、そんなに暑くもない―――。
陽ざしのあった朝のあの時の方が暑く感じたところもある。そしてこんな事はよくあること。
今、というこの場所で連ねてみているから「いつも通りの時間で良かった(のに)」という感想が出る。
今というこの場に来たことで、連続に捉える見方をしている。
”その時”、においてまだ到来していない「時」を考えて決めるということは、分からないことを多分に含んでいるの