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昔話に学ぶ《d》

ヘンゼルとグレーテル

子ども達が持ってきた

ついにこの話に触れる時が来たのか

可愛いイラストとは裏腹に

グリム童話のクレイジー物語

端的に言うと

長く続いた飢饉に困った親が

子を捨てるお話。

中世ヨーロッパの大飢饉(1315年から1317年)

に始まる

ヨーロッパを襲う飢饉の時代は

16世紀末のジャガイモ耕作の始まりまで

続いていたんだってさ。

皆生きるのに必死だったんだね。


あらすじはwikipedia先生お願い致します...


ある森のそばに、

貧しい木こりの夫婦とその子である

ヘンゼルとグレーテルの兄妹が暮らしていた。

その日のパンに事欠くほど貧しかった一家は、

あるときからまったくパンが手に入らなくなり、

どうしようもなくなった。

そんな夜、

お母さんは木こりに

子供を森の中に捨ててくるように提案する。

お父さんはためらうが、

お母さんに押し切られて承知してしまう。

両親の会話を漏れ聞き、

妹のグレーテルは泣き始めるが、

兄のヘンゼルは

自分がなんとかするからと

妹をなだめ、ひとり外に出て

月の光を受けて光る白い石を

ポケットいっぱいに集めた。

翌日、

両親に連れられて兄妹は

森の中へ入っていくが、

帰りの道しるべとして

ヘンゼルは道々白い石を落としていった。

森の真ん中で両親は

あとで迎えに来ると言い残して去って行き、

そのまま夜となった。

泣き出すグレーテルの手を引いて、

白い石を辿りながら夜通し森を歩き、

朝になってふたりは家にたどり着いた。

お父さんは子供たちの帰還を喜ぶが、

お母さんは表面では喜んだものの

心中では怒っていた。

パンが底をつきかけた頃、

お母さんはきこりに

ふたりが家に戻って来られないほどの

森の奥まで連れて行こうと持ちかけ、

お父さんは一度やってしまったことだからと

やむなく承諾した。

両親の会話を聞いていたヘンゼルは

また小石を拾いに行こうとするが、

戸口が閉められていて拾うことができなかった。

翌朝、

両親に連れられて兄妹は森に入った。

ヘンゼルは小石の代わりに

弁当として与えられたパンを

ポケットの中で粉々に砕き、

道しるべとして道々落としていった。

ふたりは生まれてから来たこともないほど

森の奥に連れて行かれた。

お母さんたちは

夜になったら迎えに来ると言い残して

去って行ったが、昼が過ぎ、

夜になっても誰も現れなかった。

月が昇り、ヘンゼルは

目印となるはずのパンのかけらを探したが、

パンのかけらは森の何千もの鳥が

ついばんでしまったため、

見つけることができなかった。

ヘンゼルとグレーテルは

野いちごで飢えをしのぎながら

3日間森の中をさまよった。

3日目の昼頃、森の中で

屋根がケーキ、壁がパン、窓が砂糖で作られた

小さな家を見つけた。

ふたりが夢中でその家を食べていると、

中から老婆が現れた。

老婆は驚くふたりの手を取って家の中に誘い、

食事やお菓子、ベッドを提供した。

しかし、

この老婆の正体は子供をおびき寄せ、

殺して食べる悪い魔女だった。

翌朝、

ふたりが目覚める前にベッドに現れた魔女は、

ヘンゼルを掴むと狭い家畜小屋に押し込んだ。

次いでグレーテルを大声で起こし、

おまえの兄さんを太らせてから食うから、

そのための食事を作れと命じた。

グレーテルは泣きながらも

魔女の言うことを聞くしかなかった。

それから毎日のようにヘンゼルは

上等の食事を与えられた。

目の悪い魔女はヘンゼルの指を触って

太り具合を確かめようとしたが、

ヘンゼルは指の代わりに

食事の残りの骨を差し出したため、

魔女はヘンゼルが一向に太らないのを

不思議に思い、

ヘンゼルを食べるのを先延ばしにしていた。

しかし、

4週間も経つと魔女はついに我慢ができなくなり、

ヘンゼルが太っていようといまいと、

明日殺して煮て食うから大鍋の準備をしろ

とグレーテルに命じる。

翌朝、

グレーテルに大鍋を火にかけ

湯を沸かすように言いつけ、

魔女はパンを焼くかまどを準備しはじめた。

グレーテルは兄を煮るための鍋を

沸かすに至った自分の運命を嘆き、

神に苦しみからの解放を祈った。

そのとき、

魔女がグレーテルを呼び、

目の悪い自分の代わりに

パン釜に入ってパンの焼け具合を確かめろ

と言いつけた。

内心、

魔女は中に入ったグレーテルを閉じ込めて、

焼いて食べるつもりだった。

ところが、

神がグレーテルに魔女の意図を教えたため、

グレーテルは釜に入るやり方が

分からないふりをして、

魔女に手本を見せるように促した。

魔女が釜に入った途端、

グレーテルは魔女を押し込み

外からかんぬきを掛けた。

釜の中から魔女のうめき声がし始めたところで

グレーテルは台所から逃げ出したので、

魔女はそのまま焼け死んだ。

グレーテルはヘンゼルを助け出し、

ふたりは喜び合った。

魔女の家には多くの財宝があり、

ポケットにいっぱいの宝石や真珠を

詰めたふたりは家路についた。

家ではお母さんが病で亡くなってしまい、

お父さんは子供達を捨てたことを

ずっと悔やんでいた。

帰ってきたふたりの姿を見てお父さんは喜び、

子供たちが持ち帰った財宝で金持ちになった。

おしまい


ありがとう

wikipedia先生

人間の怖さ

月夜に光る石の存在

人智を超えた者の怖さ

誰もが夢見るお菓子の家

中で食べるのは普通に食事の不思議

パン食に感じるヨーロッパらしさ

謎に木こりの従順さ

急に出てきた神の存在

この話には不思議な点が

たくさんあり過ぎて大渋滞している

どうしたのグリム兄弟

売れたくて必死なの?

大丈夫

売れてるよ

後世に語り継がれるほど大人気

もうあって当たり前位に

定着している

昔話にはありありだけど

この話も時代に合わせてどんどん改変されている

僕の知ってる話では

お母さんは

お父さんが連れてきた2人目の継母

意地悪な継母は

弟の木こりに子達を捨ててもらった

とされていた

あと

神の存在の記載はなかったな

そもそも元々の話では

実のお母さんに捨てられた話で

魔女にカマドへ促される際に

意地悪な母の顔を思い浮かべる等

魔女に対するグレーテルの思考の描写が

具体的にあったよう

また、

家に戻った時に

実母は亡くなったとされているが

母はいなくなった

が元々の表記だったよう

そう

魔女は母だったのかもしれない...

そりゃそうだ

自分たちの命を奪おうとする大人

さぞ恐怖でヒトではないものだと

考えたくもなるだろう

この時代は自分が生きるのに

必死だったんだ

もしかしたら実話だったかもしれない

昔は大変だったんだな

今じゃ考えられないな

小さい頃に読んでもらった時には

考えられなかったけど

今改めて読んでみると

これって結構ある話じゃない?

一種の虐待とか育児放棄の事件だよね

絵本をみて思い出したのは

誰も知らない

2004年公開の

監督: 是枝裕和、撮影: 山崎裕

柳楽 優弥 主演の映画

カンヌ国際映画祭最優秀男優賞を受賞してたね

これ見た時の衝撃を思い出した

こんな世界があるんだ

こんな事実があっていいのか

そんなことを思った

ニュースでもよく取り上げられる

児童虐待

世の中は、食うか食われるか。

食われるくらいなら、食って勝利しろ。

実は食うか食われるかの壮絶な生存競争

を描いたサバイバルホラー

グリム版バトルロイヤルだったんじゃないか

そんな表現で

ヘンゼルとグレーテルをまとめていた方もいた

虐待という観点でみると

それだけでは済まされない

身体的虐待、性的虐待、

心理的虐待、ネグレクト、

四種類とされる子ども虐待は、

それぞれ単独で発生するだけじゃなく

暴力と暴言や脅し、性的暴行と暴力や脅し、

複雑に絡まりあって起こる場合の方が多い

ヘンゼルとグレーテルも

心理的虐待、ネグレクト

身体的虐待の連鎖が

見られる

現在日本で統計取られている児童虐待

児童相談所が対応出来ているものだけでも

昨年と比べても10%増えてるらしい

新型の病流行が理由?

不況が理由?

いや。理由あればしていい話ではない。

虐待は犯罪だ。

ヒトを傷つける行為は

絶対にしていけない。

ヘンゼルとグレーテルから学ぶこと

生き抜く術は

知恵と行動力

諦めずに信じることで

チャンスはやってくる

大人だから守ってくれる

子どもは守られる

そんな常識にとらわれず

社会の変化で

すぐにヒトは醜く欲に駆られる

裏切るし、自分のことで精一杯になる

そんな中で生き抜くには

チャンスをきちんとチャンスと感じ取り

奪い取ることで結果が変わってくるよ

そんなことを言いたいんじゃないかな

虐待もだし殺人もダメ

いくら魔女であろうとも

殺すに至ったグレーテルの

今後の人生や判断基準が狂うこと

がないことを願う

こうならないためには

どのタイミングで

どのようなサポートが必要だったのかな

大人が大人であるがゆえに

子どもたちにしてやれたこと

何があるのかな

社会的にどういう変革が必要だったのかな

色々考えさせられる

罪を罪だと

正しく理解できるものに

殺人という重罪を負わせた

ヘンゼルもこれから

どうグレーテルと向き合っていくのか

この物語は

今だからこそ考えなければならない

話かもしれない

11月は児童虐待防止推進月間なんだとさ

「しあわせ」や「ゆたかさ」を探求し、

最低限の幸福と社会的援助を提供する

それぞれの自己肯定感を満たし、

存在や居場所を与え

目的に向かって助け合う。

福祉ってね

ヒトがヒトのために設定したもの

なんだけど

ヒトって色んなヒトがいる

表面上に見えてるものだけを

捉えて接するだけでは

成り立たないものもあるんだよ

コレ読んで感じた

色んな人の想い

社会として取り組むには

壮絶な戦いになりそうだけど

絶対に同じことが起きてはならないと

思うんだ。

人の感覚や感性、考え方は

生育歴や環境、学んできたもので培われる

そうなるに至った

何かしらの原因があったはず

その人だからで簡単に片付けてはいけない

何が幸せを感じ

何が豊かであれば満たされる

最低限の幸福とは何で

社会的援助ってどうあるべきなのか

抽象的だし

ヒトによって色々なんだけど

絶対にズレてはいけないし

忘れてはいけないポイント

福祉として取り組むこと

たくさんあるけど

さ。何からしようかな。

我が子にも伝わればいいな。

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サポートがなんなのかすら理解できていませんが、少しでも誰かのためになる記事を綴り続けられるよう、今後ともコツコツと頑張ります!