見出し画像

フラッシュメモリー20220325     『新編 夢の棲む街』の装幀/アートディレクションのこと。


やがて吹いてくる夕暮れの微風を背に受けて、ひそやかに街の噂をささやき始める。『夢の棲む街』

読むたびに思いだされる…利賀村の野外劇場。見下ろす鉢状の淵に二人は立って話をする。新緑になりたての森が劇場の向こうに拡がり、昨夜の騒乱をないものにしていた。昨夜、寺山修司は40度を越える熱を出し、天井桟敷結成以来、はじめてゲネプロを欠席した。身体はそんなに悪いのか――劇団員に動揺が走った。ゲネプロに続いて『奴婢訓』の本番舞台。漆黒の闇、狭い袖から若松武が飛び出していった、その顔は生涯忘れられない。僕は、26歳の時に寺山修司に出会って、そこで演劇を知った。だから演劇の体験は天井桟敷だけ。天井桟敷のメンバーは寺山さんが大好きで、寺山さんが思うようなことを一緒に作りあげ、見てもらうのがすべてだった。なのでゲネプロの欠場は、劇団と劇団員の存在を揺るがす大事件だった。(そんな劇団は他にはないと後で知ることになる)確かに寺山修司の身体はかなり病に蝕まれていて、古民家を改造した劇場と合宿所はわずかだったが、車で移動していた。皆が止めるなかで第1回国際演劇祭に参加を決めた寺山修司。天井桟敷の参加が、ロバート・ウィルソンとカントールの条件だったとか…。(それが寺山さんを参加させるための口実だったかどうかもう今は分からない)しかしながら、寺山修司は参加を敢行した。

初日から一夜あけ、今朝は、体調が良いのか…、新緑の明るい山の風景を背景にのどかな野外劇場を何とはなしに眺めていた僕の側に寺山修司は独りあらわれた。「大丈夫ですか?」寺山修司は答えず山を見ていた。大丈夫なはずはないよな…。初日がどれほど演出家にとって過酷なものなのか。過ぎれば少しは軽くなる。なんとなく身体の輪郭が柔らかく感じた。天井桟敷は、ワークショップで役者が箱書きを使って、どんどん肉体で原形を作っていく。シーザーが激を飛ばす。それでも最後の最後に寺山が修正をかけて、桟敷の演劇になる。寺山修司は、不思議な仕上げ力をもっていて、触るとがらっと雰囲気が変わる。何度も再演している『奴婢訓』だけれども古民家での上演はもちろん初めてだし、和の中でできるのかと本気で心配するほどの異和感があり、なおかつ昼間の公演からはじまるとあって、完全暗転の製作を含め、かなりパッチをあてるに困難があった。寺山修司は、それを一つずつこなしていた。寺山修司は、その頃、演劇は体に負担がかかりすぎるからと医者には止められていた。「あと20年の命をもらっても演劇ができないのはな…寺山修司は僕にそう言った。

「野外劇場を選ばなかったんですか?」
脇に立っている寺山修司に聞くと「野外劇場は体力がいるんだよ…」と言い乍ら、かつての天井桟敷海外での野外劇の話をしてくれた。王様を待って開演がのび、地面の下に埋めた役者がパニックになりそうになった話とか。ベジャールの野外劇場で、金の王冠をコロシアムの階段から蹴り落として始まるオープニングのこととか。聞いていると、寺山修司は隠喩ではなく、ほんとに体制のようなものをひっくり返そうとする欲望があったんだな…と思った。なので…じゃぁと…挑発的に聞いてみた。「猿之助(三代目)がここで宙乗り野外演劇をやったら寺山さんそれ以上のこと————何を考えます?」
「自分で自分を殺せるような奴には、かなわないよ。」と、ぱっと答えが返ってきた。『天竺徳兵衛新噺』を指しているのだと思うが、寺山修司のはじめて聞く弱気な発言に驚いた…悟られないようそっと息を呑んだが、気づかれたかもしれない。新緑の山から精気に充ちた初夏の風がおりてきて。野外劇場を包み、舞い…やがて二人の話のあいだを抜けて山に戻っていった。僕には言葉がなかった。

『夢の棲む街』を最初に読んだのは『山尾悠子作品集成』であったような気がする。『夜想山尾悠子』を組むときは文庫で読み返した。読み返すたびに、心が止まる一行がある。歌を読むように何度も反芻する。山尾悠子独特のコトバと風景感がふわりとあらわれているからだろうか。それが最初の一文だ。正直に言えば、僕は山尾悠子のそんなに良い読者ではない。東雅夫が『幻想文学』で、礒崎純一が国書刊行会で山尾悠子を押してきた。仲が良い二人なのだが、『夜想』と『幻想文学』+国書刊行会との間には、
大きな溝のようなものがあり、たとえば澁澤龍彦は『夜想』には書かない。種村季弘も書かない。もちろん『幻想文学』には書く。なので、二人に縁の深い山尾悠子は、おそらく『夜想』が縁がない存在だ。その棲み分けは僕にとって何か大切なものなのだと思っていた。山尾悠子と『夜想』を繋いだのは中川多理の気持ちである。そのあたりのことは『小鳥たち』にも『夜想山尾悠子』特集にもあるので、ここでは割愛する。…さて『新編夢の棲む街』で中川多理の願いがかなうかたちになった。

『新編 夢の棲む街』は、ここ一番の出来では…。そう思っている。確かめるべく隅田公園カフェテラス席にでて改めて本を開く。本は作っている最中、ゲラの段階ではおおよそ分からない。他の人が作っている本は、ゲラでも、アーだのコーだのチェックできる。で、だいたいがあっていることが多い。自分が編集している本は、出来て、本屋さんの店頭で見て初めて分かる。書店での姿を見るだけで良い。たたずまいで…分かる。ダンサーが、たとえば笠井叡が、出てきた瞬間に、その日の出来が分かる——というのに似ている。笠井叡じゃなくて観客が把握できる。さて、『新編夢の棲む街』——。桜の綻びる川端で開いた。…心が…ざわつく。何だろうこの感じは…。余り体験したことがない。桜色の騒乱?いや、これは薔薇色、薔薇の脚色(あしいろ)の物語。

あっていて、あっていない、高橋悠治と青柳いづみの連弾『ペトルーシュカ』のような…。不協和音を協和するように青柳いづみこが弾くのを、高橋悠治がまた乱していくといういうような…、それでも全体はひとつの魅力的体裁がある。『新編夢の棲む街』の本にはそんな演奏感覚が反映されている。40年前の今が、今になる…。20歳の山尾悠子、おそらく少女の面影を残しているだろう。今も少女のかんばせを覗かせる山尾悠子だから…。漏斗と螺旋の言葉とコトバが、交錯する。…衝突はしない。薔薇色の紙面に仮想階層を成して、螺旋に…そして逆走して漏斗状に疾る(はしる)。その危うい階段状を川野芽生と中川多理がすっと協和音と不協和音の端境に薔薇色の作品をさし込む。人形の肉体とコトバ。性器のない薔薇色の脚、性器を備える薔薇色の脚…。川野芽生は、性のパラドックスについて、コトバで逼る。そして人形の身体へも。…不協和音は微細に織りなされて、不思議のメロディーを奏でだす。この本の指揮をしているのはデザイナー、アートディレクションのミルキィ・イソベ。エディトリアル・デザインを得意とし、エディトリアルも巧い。力技ではなく技量技。そう…。巧いという感じ。
中川多理の人形も、川野芽生の解説も、山尾悠子の『夢の棲む街』に関連する小編も、どこか『夢の棲む街』と齟齬を起こしながら協和している。レイヤーの重なりの擦れ、微妙なところ…その擦れが、『夢の棲む街』に生命感をもたらしている。…薔薇色の不調和音。不調を負とせず美とするのは、ミルキィ・イソベの得意とするところ。本というオブジェの悦楽。読書の快楽。この組み合わせでしか味わえないアンサンブル。川を見わたすテラス席で、出来(しゅったい)を愛でる。春。もう少しで春になる。桜の季節になる。

コーダー。
装幀は小説に入るための窓。より複層的により自由に入ってもらうための…。装幀には意外性もあるが、それは敢えてではなく、作に沿った上での意外性。作者も驚くばかりの…。たとえば小村雪岱装幀の『遊里集』で鏡花を読む。花街で遊ぶには先達が必須。同じこと。鏡花の窓は小村雪岱。もちろん鏡花を澁澤龍彦、山尾悠子という先達に導かれるのも一つ。本にはいろいろな方向からウインドウがあいている。『新編夢の棲む街』には、幾つもの窓があけられた。あける手がすべて女性だというのも、時代といえば時代。必然といえば必然となる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?