深夜の出来事

0:16 頭脳明晰とはこのことを指すのだろうか、とても思考がはっきりとしていて、生きていると感じる。楽しくは無いが高揚感はある。しかし動悸などの高揚感とは別であり、冷静だ。焦燥感という不快な感覚に苛まれることもなく、春の風が感じられるこの夜に、私はある思いつきをしたのだ。「何時までこの思考が保たれるであろうか」 最近の私といえば、特に何も考えず、過去の不安や焦燥感に悩むことも無く、ただの凡人として生きている。これは、自分にとってはとても大層なことである。去年という、一年間を無駄にした結果がこれか、なんだよ。という落胆が大きいのである。結局私の精神は正常になっても、過去のことを拭うことはできないので、なかったことにしようとしている。愚かな。今の私の精神状態が正常と断定できるのは、不安やその他の不安定な要素がほとんどないからだ。つまり、私は健常なのだ。わからない、そう思っているだけなのかもしれない。いや、このようにあるやもしれぬ可能性を考えるのはよそう。これは私の悪い癖だ。自分でもよく分かっておきながら、よく考えてしまうのは癖だと思う。これもまた私。受け入れなければならないが、そろそろこのような堂々巡りの思考回路も捨てたいところだ。私はこのような思考を好いているがね。
話は戻るが、つまりは自分の睡眠欲との競争をしたいと思う。ここに、文章を書いている時刻、その時の思考などを記録しよう。私は自分を試したい。自分は正常なのか、たまたま現在が正常に感じるだけで、何も変わっていないのか。このようなことを試すのは既に世間一般の普通ではないかもしれないが、私はこの若い精神と身体であるうちに試したいのだ。

1:39 ずっと買いっぱなしにしていたおやすみプンプンを読み切った 特にこれといった感想はないが、思春期の拗らせ以上のものは無いと思う いや、思春期にするべきだった拗らせを、大人になってからしてしまう人間の方が恐ろしいのかもしれない。これはつまり、経験というものか、成長というものか、、言葉にしづらいものである。人間は何かしらの自分の中での絶対規則があって、それだけからは外れないように生きている。きっと自分もそうだ。昔のことを引きずって怖くて何も出来ない。弱者だね。まぁ、何も考えてない人間もいるように、昔のことをトラウマのように引きづって生きている人間もいるわけだ。きっと少なくないだろう。その人の人生において絶対規則になってしまえば、それを破ることには大きな抵抗と嫌悪感が伴うものだろう。それだけはどうしてもしたくない、避けたい、などだろうか。恐ろしいね。その記憶が対人からくるものであれば尚更恐ろしい。と思う。

2:30 生を実感するには死と隣り合わせになればよい 思考が晴れる スッキリする 絡み合った余計な思考は、全て死を感じることによって合理化されると思う。澄み切っているよね ってことです。こんな話つまらないが、自分がどうしようもなくなってしまったら、それ以上のことにならないように自制を兼ねて死を実感する行動を取るのは、本能なのではないかと思う。死ぬという、確定されたものでなくて、生きるための処理として死を感じるような行動をとるのは悪くないと思うんだ。自分は少なくともその部類の人間だ。生きることというのは死の裏返しなので。人は死を感じていないと生きていても平坦でつまらないものになってしまう。死を感じることで、普段は味わえないものを得られる。ほとんど麻薬だね、はは。目的が生きることなのか死ぬ事なのか、それにもよるけれど自傷行為は自衛本能と捉えていいと思うな。自分はそう思う。

2:49 ベッドに入ったら眠気が襲ってきた。先程までは全く眠くなかったが、ベッドは寝るところと体が認識しているのだろうか、眠い。本当は何時まで起きていられるか試したかったが、明日は用事もあるしもう寝ようか。だが自分はベッドに入るまで全く眠くなかった。おかしいね。こんな終わり方になってしまったがたまにはいいだろう。自分でも滅多にないほど脳が、思考がよく回っていたからね。 おやすみなさい

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