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映画「こちらあみ子」の総括

きれいな景色を見ると、絵が描きたくなる人、写真や映像を撮りたくなる人、踊りたくなる人、歌いたくなる人、色んな人がいる。わたしは語りたくなる人。詩とか小説ならまだしも、語りたいって、なんかうざい、、、で、映画「こちらあみ子」について、これ以上語るとさすがにうざすぎるので、これまで書いた感想をまとめて終わりにしたい。

なお、わたしの中には、純粋に「あみ子の世界」が好きだという気持ちと、この映画の面白さとは別に、「あみ子の物語」をここで終わらせてしまうのはもったいないという気持ちがある。なので、以下、映画の感想とは少しズレたことも書いているが、お許しいただきたい。

魂が浄化される映画

あみ子は、社会になじめない、異端者?異物?的な存在だが、あみ子の感性は、誰もがもっていた人類共通の感性かと。ただ多くの人の場合、成長とともにそれが薄れたり失われたり。でもこの映画を観て、わたしの中で眠っていたあみ子が目を覚ました。子供の頃の肌感覚が一気によみがえった。

「こちらあみ子」を観て、つらくなったという人が多い中、わたしはなんだか自分が浄化されたような気分になった。あみ子のきれいな世界に触れて、自分の中の汚れたものが洗い流されるような。ふたをしてた感情も込み上げてきて、それと向き合うしんどさもあったので、痛みをともなうデトックスというところか。ただこの映画を観たあと、周囲の山や空や川がやたらと目に入ってきて、世界がいつもよりビビッドに見えた。

なぜ捉え方が多様なのか

この映画、基本的にあみ子の視点で描かれているけど、子供の立場に立つのか、親の立場に立つのか、はたまた同級生あるいは教員の立場に立つのかで見え方が違ってくる。

もっと言うと、あみ子が周りの人から疎外されていく中で、疎外される側の気持ちに共鳴するか、疎外する側の気持ちに共鳴するか、はたまたどちらの側にも立たず、誰かが誰かを疎外する物語として捉えるか、これによっても感じ方が変わるだろう。疎外された哀しさとか、疎外した罪悪感とか、どうしたらいいかわからない無力感とか、誰も悪くないだけに、どの視点に立ってもつらくなる。

さらに、観ている人があみ子の感性にどれだけ近いかによって、つらさの度合いが変わってくるかと。その判断材料になるのは、弟のお墓事件だ。これをどう捉えるかで、あみ子との距離感が測れると思う(距離が近いといいとか、遠いとダメとか、そういう話ではない)。わたしは完全にあみ子側。お母さんの気持ちはわかるけど、あのシーンでは、「あみ子さんは優しいね」と言われて舞い上がって、お母さんをもっと喜ばせたいと思って、張り切ってやったことが大失敗に終わって、呆然とするあみ子の気持ちにひっぱられる。

そして、そして、これだけ多くの捉え方が出てくるのは、何よりもこの映画があみ子の世界を、変に美化したりドラマチックに描いたりせず、ドキュメンタリーのように淡々と描いているからだ。余計な「解説」はない。きれい事も言わない。だから色々な解釈が可能になる。

この映画をあみ子のような「異端者」をフラットに描いた作品と評する人もいる。確かにフラットだけど、フラットに描いた作品ならほかにもあると思う。この映画の素晴らしいところは、素晴らしい原作に支えられている側面もあるけど、ネガティブに捉えられがちな「異端者」の世界がこんなにも豊かであることを音と映像で見事に表現しているところだと思う。あんなに次から次へと不幸な出来事が起こっているのに、あみ子の世界はひたすら美しい。この映画は「異端者」にとって、生きていく上での御守りになる。

一人は孤独か

結論から言えば、一人でいるからと言って孤独とは限らない。日本では「一人でいるのは可哀想」「一人ぼっちの子がいたら仲間に入れてあげよう」となるが、海外では、一人で本を読みたい、一人で部屋で遊びたい、そういう子供を無理矢理、外に連れ出して、みんなとボール遊びをさせたりしない。

その子の意思を尊重するのだ。ほったらかしとは違う。これはあみ子をそっと見守るこの映画のスタンスにも通じる。まさに青葉市子さんが、あみ子に対して、毛布をかけてあげるのではなく、そっと置いておくような優しさだ。押しつけがましくない。そっとしておいてくれる優しさ。だからあみ子は一人ぼっちだけど、孤独じゃないように思える。この映画は寂しいけど優しい。わたしはそこにものすごく惹かれる。

あみ子はあみ子

かりに社会になじめるように「あみ子」にマジョリティのルールを教え込んだらどうなるだろう。「あみ子」の豊かな世界はきっとあっという間に壊れてしまうだろう。じゃあ、どうすればいいのか。

それはありのままに捉えることだと思う。坊主頭や保健の先生は、あみ子をあみ子として捉えている。あみ子に形容詞はいらない。特定の診断名はもちろんのこと、本来は「ちょっと変わった」もいらない(映画のプロモーションには必要)。変わってるかどうかの基準は人それぞれだ。もちろん「この子、変わってるな」と思うのは自由だけど、最初から「あみ子はちょっと変わった女の子」と紹介されてしまうと、その瞬間にあみ子は自分たちとは違う異質な存在として認識され、あみ子との間に境界線ができてしまう。主治医でもないかぎり、診断名については言わずもがなだ。

あみ子はあみ子だ。坊主頭の存在に救われたという人は、自分の周りの「あみ子」にも坊主頭と同じように接したらいいと思う。「変わってる」からと言って疎外しない。ありのまま受け止める。それはすべてを受け入れるということではない。自分の目で見て、何が受入れ可能で何が受入れ不可能かを自分で判断するということだと思う。

森井監督は「この映画を通して伝えたいメッセージは?」と聞かれて、「メッセージはないですね」と答えている。強いメッセージ性をもつ映画は、製作サイドの意図が伝わりやすい反面、メッセージと異なる意見をもつ人を排除してしまう。何者も排除しないのが「こちらあみ子」だ。そして「あみ子という存在」を描きたいと思っている以上、「丸投げ」とは違う。具体的なメッセージはないけど、伝わるものがある。心が揺さぶられる。

応答せよ応答せよ

映画評の中に「応答のないトランシーバー」「一方通行の会話」「届かない声」という切ないフレーズをよく見かける。でもこれは言い方を変えれば、たとえ応答がなくてもあみ子は発信しつづけているということだ。ということは、あとはわたしたちがどうするか、だ。応答したいと思ったら、応答したらいい。そっと見守るのもいい。あみ子の声が聞こえても事情によっては対応できない人も、あるいは聞こえないふりをする人もいるだろう。でもあみ子の存在を、あみ子が人との関わりを拒絶しているわけではないことを知っている人と知らない人の差は大きいと思う。

最後に、あまりに当たり前のことなので書いてこなかったが、この映画のすごさは、俳優陣の演技を抜きには語れない!新さんと尾野さんはもちろんのこと、やはりあみ子を演じた大沢一菜さんの演技が鮮烈だ!監督からは「演技はしなくていい」「台詞を話すだけ」という指示しか受けていないようだが、一菜さんが自分の中のあみ子をカメラの前であそこまでさらけ出せるって驚異的すぎる!脚本を読んで物語の趣旨を理解してのことか?それともたぐいまれな直感の持ち主なのか?こういうのを天才と言うのだと思った。

一本の映画にいくつも感想を書くわたしはたいがい気持ち悪いだろう。けど、わたしはむしろ書かないと気持ちが悪い。応答とか気にしないで、とにかく書けと、わたしの中のあみ子が言っている。

以上でわたしの感想はおしまい。書き切った感。パンフレットを通じて現場スタッフの深いあみ子愛を感じたし、SNSの中の人おかげで色々な感想を目にすることができた。イベントや舞台挨拶の企画もありがたかった。この映画に携わったすべての人に感謝したい。あとは森井監督がいつかまた別の世界を見せてくれるのを静かに待つことにする。

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