291回 回転を加えてもっと


逆上がりが出来なかった。
小学生で出来なかったのだから、もちろん今でも出来ないだろう。
逆上がりが出来るか出来ないかは、子供にとっては重大な運命の分かれ目である。逆上がりが出来ないということは、つまり運動神経が悪いとの烙印を押されてしまうからだ。
体育自体は別に苦手ではなかったが、体育の中でも得意なものと苦手なものが結構はっきり分かれていて、その苦手なものの中でも鉄棒は特に苦手だったのだ。
もう半世紀も前のことなのに、今でも自分は逆上がりが出来なかったなと思い出すというのは、相当のトラウマになっているのだと思う。

小学校の学習指導要項を見てみると、現在も体育では「器械運動」として跳び箱と鉄棒が必須となっている。
そしてアンケートによると、「小学生が苦手な運動」の堂々第1位は、鉄棒なのだ。自分だけじゃなくてよかった、苦手な子は沢山いるんだ、と少し安心。
そしてやはりその中でも逆上がりが苦手という意見は多い。逆上がりは小学校5年生で学ぶ項目となっているが、出来る子はもっと前からクルクルと何度も鉄棒を回っていたし、出来ない子は何度やっても落ちてしまう。
小学生の時、クラスで逆上がりが出来ないのは、私ともう1人の女子だけだった。その子は体育全般が苦手だったので半ばあきらめているところがあったが、私は他はそれなりに出来たので逆上がりが出来ないことが悔しくてしょうがなかった。
今思えば単に上肢の筋力とかそういう問題ではなく、体を動かすタイミングを飲み込めなかったのだろう。どこで腕を曲げてどこで伸ばすか、どれくらいのスピードと角度で地面を蹴ればいいか。

このような一連の動きというのは、頭の中にそれ専用の回路が構築されて、ある日突然出来るようになる。水泳でも自転車でもそうだった。そして一旦その回路が出来ると、次からは何も考えなくても体がそのように動いてくれる。
さてここで、記憶の話になる。記憶には大きく2種類あって、数分から数時間程度しか覚えていられない短期記憶と、何十年も覚えていられる長期記憶に分けられる。また短期記憶で記憶出来る情報は一度に7項目±2であるのに比べ、長期記憶では大容量の情報を記憶できる。長期記憶はまた、意味記憶やエピソード記憶といった陳述記憶と、非陳述記憶に分けられる。意味記憶とは言葉の意味などを記憶することであり、エピソード記憶とは個人的な経験や出来事を記憶することだ。認知症で短期記憶の次に障害されるのは意味記憶であり、言葉がなかなか出てこなかったり、名前が思い出せなくなる。
記憶といえばすぐ脳の側頭葉にある海馬という場所が浮かぶ。海馬は大脳辺縁系の一部であり、記憶に於いて重要な役割を果たしている。情報が入力されると一旦海馬に保持され、そこで必要なものと不必要なものに分類される。この時何度もその記憶にアクセスしたり、強い感情を伴ったりした場合は、必要と判断されて大脳皮質に送られ長期記憶となる。記憶においてこの振り分けの過程は重要であり、海馬が働かなくなると新しいことは覚えられなくなってしまう。

そして非陳述記憶の代表的なものが、手続き記憶である。手続き記憶とは、意識しなくても「体で覚えている」記憶のことで、泳ぎ方や自転車の乗り方はこれにあたる。
失敗しながらも何度も繰り返し体を動かしていると、大脳基底核と小脳のニューロンネットワークが、正しい動きを学習して記憶する。これが手続き記憶であり、一旦形成されると意識的な処理を伴わず自動的に機能し、長期間保存される。
自転車の練習をしていた時、何度も失敗を繰り返した後ある瞬間に乗れるようになった。この「会得した」としか言いようのない感覚はとても感動的で、そうして乗れるようになるとその後はもう何も考えなくても乗れるのだ。10年以上乗らなくても、乗った瞬間に体が自動的にその感覚を思い出す。手続き記憶というのはそういうものなのだ。
認知症の高齢者が、家族の顔も名前も忘れてしまっても、包丁で見事にリンゴの皮を剥くのを見たことがあるが、それ程この手続き記憶というものは体に、いや脳に染み付いている。

逆上がりの極意は、勢いとタイミングだ。
もちろん自分の体重を支えるだけの上肢の筋力も必要となるが、それは当然としてもまずは蹴り上げる勢いが大事となる。鉄棒の真下か少し前で軸足を思い切り踏み切って、もう片方の足を蹴り上げる。この時怖がってしまうと、真下ではなく少し手前で踏み切ってしまうので、上手く蹴り上げられなくなる。
足を蹴り上げたら、次は腕を曲げた状態を維持してお腹を鉄棒に引き寄せる。この時腕の力がないと伸びたままになるため、鉄棒と体が離れてしまい回ることが出来ない。顎を引いて自分の臍の辺りを見るようにしながら、腕を曲げた状態を維持するのがポイントだ。
そして最後は、足を振り上げ切る。真上に向かって振り上げず斜めになってしまうと、体と鉄棒が離れてしまうのでいけない。空に向かって足を振り上げるイメージで思い切り振り上がったら、膝を曲げて体を鉄棒に巻きつけ、回転の勢いを利用して体の重心を下げる。頭を上げれば逆上がり成功である。

こう書いていても、無理!だと思ってしまう。
逆上がりが出来ない大きな原因として、逆さまになることへの恐怖というのがあるのだそうだ。日常生活では逆さまになることなど殆どない。逆さまになることは頭に血が昇り生命の危険が及ぶということであり、無意識に忌避するように出来ている。なので意識してその恐怖を克服しなければならない。
マットや布団の上で、逆さまに回転する感覚を身につけるためにトレーニングしたりするなど、涙ぐましい努力をしなくても、すんなりと身につけられる人も多いのだろう。おそらく私は平衡感覚が悪いので(そのため車酔いをしやすい)、怖いというより回転すること自体が苦手なんだと思う。

逆上がりは出来なかったが、もう一つの器械運動である跳び箱は得意だった。一番高い8段も飛び越せたので、決して踏み切りの思い切りが良くないわけではなかったのだ。
ただ横長に置いた跳び箱は得意だったが、縦長に置かれた場合は飛距離が稼げず、飛び越えられないこともあった。ある時着いた手を離すタイミングを逃して、自分の手の上に体を落としてしまい、手首を捻挫した。それから怖くなって思い切り飛べなくなったから、やはり恐怖心を克服出来るかというのは、重要な問題である。

逆上がりの出来ない生涯を送って来ました(太宰風に)。
だからと言って特に不自由したことはない。逆上がりが出来ないことは、私のその後の人生に於いて影響は及ぼさなかった。とは言えこの歳になってもいまだにこうやって覚えているのだから、子供の時の挫折というのは厄介なものだ。
逆上がりのコツを掴んで手続き記憶にしまっておけなかったのは残念だが、今後の人生で鉄棒に触ることはおそらくないと思われる。失敗体験の方が成功体験よりも感情的に残りやすいが、どうせなら出来たことの方を覚えていたい。

日本以外では、鉄棒の逆上がりが学校で必修となっている国はない。思えば非常に特殊な技能だ。英語で逆上がりを表す単語はないし、殆どの人はやったこともなく、当然それに対する思い入れもない。
逆上がりが人生で最初の挫折経験になるなんて、つまらない話だ。
子供の頃からひとりひとり出来ることもそのレベルも違っていて当たり前なのである。出来るまでやらせる、クラス全員が同じレベルを目指す。馬鹿馬鹿しい。
個人の適性に合わせて教育の自由度が広がることを、願ってやまない。


登場した器械運動:跳び箱
→跳び箱(跳馬)も鉄棒もれっきとした体操競技である。跳び箱のギネス世界記録は、大山大和氏のもつ24段(2m96cm)だそうだ。
今回のBGM:「ノウニウノウン」by たむらぱん
→逆上がりを練習した小学校は廃校となってしまったけど、鉄棒のある校庭を見ると「ちゃりんこ」の歌詞を思い出す。あの頃の負けん気は今でも変わらないよ。


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