苦手よりも得意を活かせという成功者の助言より、まずは自分の仮説を検証してみたい
自分の得意なことは何なのか。
自己分析はもはや趣味なので、たくさん向き合ってきた。自分にはこんな一面がある、こんなことが評価される、自然にできる、結果が出せる、人に貢献できる。
あこがれる人に共通するのは、自分の強みを理解し、育て、得意なことで他者へ貢献し続けることで、自然と人に囲まれてることだった。
ウェルビーイングの研究でも、組織論の観点でも、自分の強みを理解し、活かすことは非常に重要であると明らかになっている。どの自己啓発本を読んでも自分の弱みに向き合ってもせいぜい平均にしかならないので、自分の強みを伸ばし続けることが大切だって言ってる。
きっと自分は、人と比較して
昔に比べ、自分の強みがすらすら出てくるようになった。
多分自己分析のワークの資料とか出せば、もっときれいに出てくるはず。それくらいここ最近は自分の強みを愛して生きてきた。
◎それでも自分はこれから「苦手」と向き合いたい….。
自分が苦手なもの
詳細は省くけど、小・中学生のころは給食の時間がすごく苦手だった。食べるのが遅いからという理由で、席は孤立させられたり、いつもみんなが外で遊んでいる間も一人食べていたり、三者面談は給食のトピックばかり。
そんな自分が今、料理に挑戦している。
きっかけはアフリカ村での生活。自分たちが食べるものは、自分たちで採取したり、地域の人に分けてもらう。毎日おいしいものが出てきて、食事に何時間も費やすこの日常を過去の苦しかった自分に届けたい。
TABIPPOの活動が終え、起きてる時間ずっとTABIPPOのことやってただろってくらい(少し盛った)だったので、活動が終えたときに何をすればいいかわからなくなった。
寂しさを埋めるため、そして次の一歩を考えるために1on1を始めた。はじめは話すことメモしたり、たくさん準備して臨むほど緊張。それが今では月平均3~5名程度伴走支援のお手伝いがあるのでびっくり。
給食の経験で、自分はこれ以上目立ってはいけないと思った。できるだけ迷惑をかけないように、人並みにできるようにならないといけない。集団主義の日本において、グループの平均を目指し、大多数を選び、常に普通を考え、目立つ行為を避けてきた。
そんな自分が実はファシリテーターとしての顔があります。少し前までは月2-5程度の場をオンライン/ オフラインともに作り、お金をいただいていました。
「苦手」って何だろう。
気づけば苦手なものが自分のアイデンティティになりつつある。
自分にはできないものと対峙したとき、自分は人の手を借りてどうにかしてきた。コミュニティの立ち上げ、無人島貸し切りでのリトリート、キャンピングカーでの協賛イベント、フィジーでのビジコン優勝等々、自分のレベルを超えた挑戦も多かった。
それは、自分のやりたいことを言い続けたことと、それを実現してくれる人と出会いに行き続けたことが大きかった。
すべてだとは思わないけど、苦手なものには自分の大切にしたいが隠れているのではないかと思っている。
例えば、人と深く話すこと。
普通でありたいと思っていた自分にとって、深いところまで心の中に入られるのを防ごうとした。でも、本当は人と心から分かり合いたいという願いからコーチとしての顔を持ちました。
例えば人と食事をすること。
当たり前に人と食事することがなかった自分にとって、食は苦しいもので決して楽しみではなかった。でも、本当は人と楽しく食卓を囲いたいという願いから最近料理にハマっています。
もしかしたら、苦手は「できない」から生まれるわけではないのかもしれない。
むしろ自分の欲求が強く、本当に大切にしたいもの。でも、世の中の当たり前と自分のこだわりがぶつかり、次第に苦手意識を感じるようになる。
この「苦手」と思っているものを乗り越えていく先に、真の自信があるのかもしれない。
少し余談
最近、DANROという対話のスクールに通い始めました。
つまり
ざっくばらんに話したので要点をまとめると、
自分が大切にしたいものが隠れているのに、多くの人がそこに向き合いきれない。だから、どこか生きずらさを感じるのかもしれない。
大前提、自分の得意を活かすことは間違っていないと思うし、基本正しいと思っている。でも、それで苦手と向き合わないのは、自分の大切にしたいことをどこかに置きながら日々過ごしているような感覚。
そして、この「苦手」と思っていたものも実は自分が本当に大切にしたいものだったんだと気づけること。それからだんだん好きになり、気づけば得意になっていく。
苦手だと思ってたものを乗り越えていく経験を重ねれば、自然と自分でも大丈夫。自分なら大丈夫って思えるかも。2024年に立てた目標も4か月経つことでかなり重なってきた。
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