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公明党支援と創価学会について

初めに

私は創価学会4世だ。20代後半では活動している部類に入ると思う。
簡潔な自己紹介は、他の記事にまとめたので興味があればご覧ください。

noteを書くきっかけ

近頃、私と同世代の活動家では、創価学会元理事長の息子である正木伸城さんの話題が上がることがある。
正木さんのエッセイを通し、私自身が、創価学会の活動における問題点や日頃感じることを整理することが増えたため、noteに書くかことにした。

そのため、正木さんのエッセイをお借りしながら話を展開していくことが増えるだろうが、お許しいただきたい。

公明党支援と創価学会

今回は、正木さんのエッセイ「公明党支援にまつわる、学会の“公式”と“現場”のホンネ・建て前」で取り上げられていることに添い書きたい。

まずはこのエッセイで取り上げられている問題点を整理したい。
①「池田先生」のために公明党を応援するという発想
②池田大作氏の思想と公明党の振る舞いが不一致に見える
③「選挙活動に功徳があると学会員は信じている」

これらが見出しにもなっている大枠の問題だ。
しかし、僕はこれを読み、問題はもっと複合的に絡んでいると感じたため、ひとつとつ整理してみたい。
少々長くなるかもしれないが、興味あるところだけでも読んでいただければ幸いだ。

「池田先生」のために公明党を応援するという発想

この項では、正木さんは当時の自衛隊のイラク派遣への公明党の振る舞いに納得いかず、先輩や副会長に相談する。
「政策に納得ができない時、それでも公明党を支援すべきなのでしょうか」
しかし、正木さんの納得いくレベルの議論ができる人もいなく、副会長に
「公明党は池田先生がつくられた政党だ。弟子として応援しないのはあり得ない」
こう言われる。
そして、正木さんは
「確かに、宗教的にはそれも大事な視点ですが、純粋に政策で選ぶならまだしも、『池田先生のため』『同志である学会員が候補者だから』という理由で公明候補者を選ぶという政治的な決定の仕方を取るのは、どうなのでしょうか?」
と質問を返すが、「頭でっかちだ」(趣旨)などと言われたという。

まず、ここでは3つの問題が絡んでいると思う。
①公明党の政策や行動が、自身の考えや主義と違うことがある
②池田先生の作られた政党だから支援をするという考えがある
③しっかりと議論ができていない

①公明党の政策や行動が、自身の考えや主義と違うことがある
これは正木さんの上記エッセイの最終項「宗教的信念ならベストを選べるが、政治はベターしか選べない」にも繋がる話になるが、公明党の政策や取り組みに納得いかないことなんて正直ある。
違うことだって全然ある。
特に学生でもなく、高齢者でもなく、子育て世代でもない、私なんて政治の世界において、特別に相手されていない世代ではないだろうか。

しかし、全てが違うかというと、そういうわけではない。
1つが納得いかないからと言って、100納得いかないわけではない。
納得いく部分の方が多い。
だから、私は概ね賛成派ということになる。

人間関係であっても、友人の少し気にいらない部分があるからと言って、全部が嫌いとはならないのではないだろうか。
気の合う友人であっても、好みが違うところもあれば、意見が違うことだって当然あるはずだ。

逆に、正木さんや、皆さんにも聞いてみたい。
政党の政策に全面賛成、100%支持するなんてことはあるのだろうか?
生きる環境も、生活スタイルも、性別も、考え方も違う全ての人が同じ意見になるはずがないのではないかと。

だから、私なりに考え調べ、また公明党と他の政党を比較し、公明党の方が、より多くの人のためになるだろうと思っている。
そのため、私としては、自分の意見と違うことはもちろんあるが、様々足し引きした結果、公明党を支援することがベターということだ。

要は、「自分の考え・感情の部分」と「自分以外の人のため」
この二つの視点は分けて考えなければいけないのではということだ。

仏法、ことさら創価学会の解釈する日蓮仏法は「自己超越」がテーマとなると思う。創価学会では「人間革命」と表現する。
自分だけの視点を超え、より多くの人、また目の前の人のことを考え、行動した先に、結果的に自身の成長の繋がる。端的に言えば、こうだと理解している。

②池田先生の作られた政党だから支援をするという考えがある
次にこの問題だ。これについては、確かにこのような、考えや指導する人はいる。全員ではない。

私は、これだけを主張するのは暴論であると間違いなく思う。
また、4世である私たちのような世代は、池田先生と直接会い、話しをしたことなんて、99%はいないと思う。だから、「池田先生のため」「池田先生が作られたから」だけでは私も納得はいかない。
これで頑張れる世代もいるかもしれないが、一旦ここでは世代が違うため触れないことにする。

そこで、私が考えなければいけないと思うのは、「池田先生が作られた」の奥にある部分ではないかと思う。
私たちは、牧口、戸田、池田と3代会長、また草創の名もなき会員の方達が、大きく創価学会を発展させ、めぐり巡って自分が❶今、信仰活動してる環境があるということだ。
そして、公明党を池田先生が何のために「公明党をつくられたか」である。
公明党の結党の精神にはこうある。
「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」
また、結党当時の様子として
当時、大企業優先の自民党と労働組合中心の社会党とのイデオロギー的対決政治に明け暮れていた」

このように、自民党と社会党のイデオロギーから漏れている人たちをがいた❷「多くの大衆のため」に結党されたのである。

この❶❷があってこその「池田先生のため」であると思う。
多少暴論に聞こえるかもしれないが、私はこれで納得しているからいいのだ。
もし、そんなのがおかしいという意見があれば、どのような理由で他の政党を支持しているか、ぜひ自分の今後の思索のためにも聞いてみたい。

生きている中で、嫌いなことの理由づけはたくさんあっても、好きなものの理由なんてそんなにないと思う。大体はフィーリング。その先の好きなディティールなんて、興味ない人、嫌いな人には伝わりにくいのだ笑

③しっかりと議論ができていない
正木さんはエッセイで、「厚みのある議論ができなかった」「話を遮られた」とある。
一点だけ話は逸れるが、これは、あくまで正木さんの感じた感想であるため、否定はできない。厚みを感じられないことはあるかもしれないし、納得いかないことだってあるかもしれない。でも、そんなことは生きれてば無数にあるのではないだろうか。
そのため、そこを強調するような書き方がどうしても気になってしまう。
仕事上、エッセイを読んでもらわないければいけないと思うので、このような書き方になってしまうことも、致し方ないとも思うが、、、、

本題に戻ろう。
この「議論ができていない」という問題。
これも幾重にも問題が重ねっていると思う。

まず、議論ができていない。これは往々にしてあると思う。
案外、創価学会の活動は多種多様な活動をしているため、考える暇がないこともある。普通の人から見るととっても忙しいのだ笑
私がお付き合いしたことのある創価学会ではない方に、この忙しさは全く理解されなかったこともある笑
理解されないほど、忙しいのはおかしいのではないか、というツッコミは一旦置いておく笑

また、多くの会員が、入口は先輩にやってみようと言われたから、やってみた等、考えずに始めることが多い。なぜその時、先輩のその言葉だけで始められるかは、各々の環境や状況がある。

そこから、徐々に正木さんのように考え、また人と触れていく中で、自身の考え方や捉え方が固まっていくのだ。
その中で、正木さんの言葉を借りるのなら、「厚みがない」状態で公明党の支援ができる人、また活動ができる人が多くいるということになる。

しかし、これも先ほどから触れている通り、人の考え方は千差万別なのだ。
そのような人がいたって良いとも思うし、そのような人がいるのも仕方ないとも思う。

正木さんは、そこに納得できなくて困ったから、学会本部職員を辞めたのであろう。納得できないことだって、仕方ないというか、そのような人だっている。
ただ、全ての意見が一致する人はいないということを理解するべきであると、私は思う。これは、創価学会や公明党の支援に限った話ではない。

だから、私が思うことは、当時の正木さんが私と話し「厚みがない」と思ったのならば、厚みが出るまで一緒に議論して欲しいと思うし、厚みが出るように参考文献など教えて欲しかったと思う。
何だったらたくさん書籍を読んでいらっしゃるので、自分から積極的におすすめの書籍などを聞いていたかもしれない。

もちろん正木さんの求めるレベルの議論に応えられない先輩や幹部にも、問題はあるであろう。自分がそのレベルになる努力をするか、出来ないなら、出来そうな人を紹介すればよかったはずだ。

現に、私自身は、どちらかというと「厚みがない」という状態は問題であると思うため、気心の触れる学会の同志とは、積極的に議論を交わす努力はしているつもりだ。また、後輩などから相談されれば、積極的に自身の考えの変遷を話している。

池田大作氏の思想と公明党の振る舞いが不一致に見える

大きな問題の二つ目。こちらは端的に行きたい。
①池田先生の発言の更新がされないため、昔と今では社会情勢が違う。
②公明党の振る舞いに矛盾を感じる。

こちらは、先ほども引用した「結党の精神」から考察したい。
「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」
公明党のスタンスはあくまでここであろう。

①の問題があるから、昔と比べたら②の問題が起きて当然なのだ。
そのため、現在の公明党がどのように行動しているのか、それが「結党の精神」であろう。

それが、不一致だと感じるか、一致していると感じるか、それはもう
打ち上げ花火、上から見るか、下から見るかだ。

見る人の環境、考え方によって全く違うだろう。

だから、先ほども述べた「自分の考え・感情」と「自分以外の人のため」
この二つの視点を持ち、客観的に、相対的に、公明党が大衆のために行動できているか判断すれば良いのだ。

現在は与党にいるため、いろいろな意見もあると思うが、それもまた、その側面から見る人にはそう見えているということだと思う。

「選挙活動に功徳があると学会員は信じている」

いよいよ最後の問題である。
正木さんのエッセイでの、この項の問題点は大きく以下である。
公明党を支援すること」と「信心のある・なし」は本来関係がない。学会公式でもそうである。

②古い時代において池田先生は、選挙活動の宗教的意義を述べ、そこに功徳があることを明言しているが、認識している人は少ない。つまり学会員は、ある種の「不文律」的なものによって選挙に宗教的意義を感じながら活動をしている。

③学会員への「選挙活動に功徳はあると思うか?」と問いには、「ある」という人と「選挙そのものではなく、選挙を通じて深まる信心に功徳がある」という人などに分かれる。

①②については、確かに公明党の政策が、正木さんの考えに沿わないことは、信心のある・なしは関係ないと思う。

基本的に、今まで述べてきたことの繰り返しになるが、日蓮仏法のテーマは「自己超越」だ。また仏法のキーワードには「内省」というものもある。
自分を見つめ、改善していくということである。
これは、日蓮仏法では、仏、ここでは宗教的なパワーXと表現しよう。この宗教的パワーX、これは自身の内にあるという考えからくるものだ。

例えば、キリスト教では良いことも悪いことも神様のおかげと捉えると、大方思っている。要するに宗教的パワーXは、外に存在するという考えだ。正確にはプラグマティズムなど様々な捉え方があるが、、、

しかし、仏法では良いことも悪いことも、またあるゆることは自身に原因があると説くのだ。宗教的パワーXはどこまでも自身の内にあるのだ。

そのため、幹部側の視点では、「正木さんの信心に起因する」という結論はおかしい。また逆で、正木さんは組織では違うという、「組織や池田先生の発言に起因する」という考えも少し違うのではないかと思う。

極論になってしまうが、「不文律」的なもので活動しているということなんて関係ないのだ。不文律で活動できる人もいれば、成分律がないと活動できない人もいるだろう。

あくまで自分の中で消化、また昇華していけば良い問題なのだ。みんなが同じ考えにはならないと思う。

ただ、不文律で活動できる人がいて、活動できる理由を言語化できないばっかりに、それが問題に見えることもあるだろう。それを問題の一つと捉えることもできる。私もそれが全く問題じゃないとも思わない。
でも、問題と感じながらも、相対的に賛成派の私は活動できるだけだ。

そのため「学会員は」と一括りに表現されているが、100%の人が支援活動をしていないこともあり、これは間違いであると思う。もしかしたら、今回引用しているエッセイ以外で、一括りにしていないという趣旨があれば申し訳ない。

このように、信仰にはグラデーションがあるのため、全員が違うのだ。
アイドルやサッカーチームのファンでも、過激な人もいれば、ライトな層だっているだろう。

③について、「選挙活動に功徳はあるのか?」
これは私の捉え方として「自己超越」がやはりキーワードになる。
私自身は、選挙活動に直接的な功徳はないと思っている。そのためどちらかというと後者派の意見になるだろう。

私の捉える日蓮仏法は「自己超越」とは、上記で述べたように、「自分だけの視点を超え、より多くの人、また目の前の人のことを考え行動した時に、結果的に自身の成長の繋がる」と思っている。

そのため、選挙というツールを通し、公明党という多くの大衆のためになると自分では思う政党を通し、自身以外の人に選挙依頼をし、間接的に自分以外の人のためになるであろう行動をしている。
この行動が、結果的に自身の信心を深めることに繋がっているのだと思う。

その選挙依頼の中で、不快な思いをすることが存在していることは否定しないし、またその時だけでも会えることを喜ぶ人がいることもある。それは、そう見えてるだけだという意見もあるかもしれないが、それもある側面からの意見であり、100の意見ではないだろう。不快な思いをする人と、良い思いをする人の数を正確に足し引きすることはできないため、これはかなり難しい問題と思う。ここでは触れないこととしよう。

まとめ

以上、ここまで6000字を超える文章になり、お付き合いありがとうございます。
こんな長文を書くことは、大学のレポート以来なため、拙い文章大変に申し訳ない。また、つらつらと書いたため文調が偉そうだったりと感じたりしても申し訳ない。
夜中に書いているため、誤字脱字もご了承願いたい笑

全体を通じて、私が伝えたいことは
・学会内に限らず、人の考え方は千差万別であり、グラデーションがある
・日蓮仏法においては、「自己超越」がキーワードであると思う。そのため、「自分の考え・感情」と「自分以外の人のため」という、2つの視点をある程度分けて考える必要がある
である。

また、機会があればnoteに書いて行きたいと思う。

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