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あの日の国境越え

「ねぇ。世界一周って、短期旅行となにがちがうの?」

そう問われ、6年前の旅生活に想いを馳せる。たしかに当時、私にとって長旅でしか得られない「なにか」があったのだ。

鮮やかに脳裏に蘇ったのは、羊たちが草を食む草原をバスで横切り、大海原を船で渡り、トラブルに見舞われながらも未知なる異国に胸をときめかせて国境を超えた、あの日。

そうだ、私がどうしようもなく旅情を掻き立てられたのは、時間の制限なくのんびりと移動していたときだった。そんな日々のことを綴ってみよう。


インド編(バラナシ~コルカタ)

2016年12月、インドはバラナシ。ヒンドゥー教最大の聖地、ガンジス川の近くに佇む日本人宿で、私はコルカタ行きの寝台列車に乗るため、せっせとパッキングをしていた。

ところがその日の夕方、宿のスタッフのインド人男性から「君が乗る予定の列車は、20時間以上遅延しているよ」と告げられ、「へ!?」と変な声が出た。

ここのところ災難続きだった。4日前に宿で提供されたオクラ丼で腹を壊し、一昨日まで部屋のベッドで熱にうなされていた。ようやく体調が回復してきたので、少しでもスケジュールの遅れを取り戻すべく、移動の準備を進めていたのだ。

「やれやれ、延泊だな」とため息をつき、一度スーツケースに入れた荷物を元に戻した。

バラナシの混沌

翌日の正午、「確証はできないけど、たぶん列車はくる」という心許ない助言に従い、私は宿を出発してリキシャでバラナシ駅に向かった。

リキシャの男性の言い値は150ルピーだった。ところが駅に着くと、「通常より1キロ多く走ったから、200ルピーだ」とぬかす。

いつもなら軽く受け流すものの、インド人のしょうもない嘘やデマカセにうんざりし、列車の遅延でイライラも最高潮に達していた私は、彼にグッと顔を近づけ、「なんで騙そうとするの?」と低い声で追及した。

彼は慌てて笑顔をつくり、「わかったよ、150ルピーでいいよ。その代わり、ここにキスしてくれ」と自分の頬を指さす。

私はもうアタマにきて、「バカじゃないの! あなたが善良な人間になることを祈ってるわ」と言い捨てて去った。

バラナシ駅

バラナシ駅のホームは混沌としていた。大勢の人でごった返し、数頭の牛たちがゴミ箱を漁り、あらゆるものが混ざり合う臭いがした。

果たして私は列車に乗れるのだろうか。不安に駆られつつ、ホームのベンチや女性専用の待合室でひたすら待った。

2時間後に列車がホームに到着したときは、無宗教の私も心から神に感謝した。電車が遅延してから、26時間が経っていた。

26時間遅延した寝台列車

私が予約した席は「2Aクラス」で、ファーストクラスの次に良いエアコン付きの車両だ。2段ベッドが2つ並ぶ4人部屋で、それぞれにシーツや枕、毛布が用意されている。

私の寝台に向かうと、なぜか若いインド人の女の子が座っていた。

「あのー、そこ、私の席なんですけど…」と話しかけると、彼女はあっけらかんとした表情で、「私の席とかわってちょうだい」と言う。

まぁ寝台はどこも同じはずだし、いいか。仕方なく彼女の寝台(下段)に移動すると、白い枕に黄色いカレーがぶちまけられていた。ぷわーんと香辛料の臭いが漂うその光景を前に、呆然と立ち尽くした。

上段に寝そべっていた親切なイギリス人紳士が、虚な目をした私に気付き、「この子の枕とシーツを交換してあげてくれ」と、駅員に頼んでくれた(深謝)。

綺麗になった寝台に荷物を下ろし、ぐったりと寝そべる。あぁ、ここまで長かった…。

夕食は、車内販売されていたターリー。辛さが控えめでチキンは柔らかく、想像以上のおいしさに夢中で頬張った。

夕食のターリー

向かい側の寝台に寝そべる高齢のインド人夫婦が、「どこからきたの? あら、日本!いいわね~!」と、笑顔で話しかけてくれる。

夫婦からの質問は30分以上続き、そろそろ私の体力は限界を迎えていた。

「それじゃあ私は寝ますね。おやすみなさい〜」と言ってカーテンで仕切り、毛布にくるまり、秒速で眠りに落ちると思ったら… インド人夫婦が突如、お経のようなものを大声で唱え始めて、白目をむいたのであった。

泥のように昏々と眠り、パチリと目を開けると、窓の外が明るかった。冷たい外気が隙間から流れ込んでくる。隣の車両から、「チャ〜イ、チャイチャイチャイ…」という声が聞こえてくる。チャイの売り子さんだ。

むくりと起き上がり、「チャイをください」と頼むと、ヤカンから小さな紙コップにトクトクと熱々のチャイを注いでくれた。

一口飲むと、甘さが身体中に染み渡る。指先から足先までじんわりと温まり、ポカポカしてきた。

チャイを飲み終わり、寝台に寝そべって、ボーッと車窓を眺めた。

同じく起床したインド人夫婦と、「おはよう」と挨拶を交わす。「みく、チャイにはビスケットよ」と奥様がにっこり笑って、ビスケットを分けてくれた。

「こうやってビスケットをチャイに浸して食べると、最高なのよ」

ホットチャイと、奥さまがくれたビスケット

早朝6時、列車は西ベンガル州の州都、コルカタに到着した。


ボリビア編(コチャバンバ~スクレ)

ボリビア第3の都市、コチャバンバ。標高約2600メートルに位置する温暖なこの街を訪れたのは、現地でJICAの隊員として働いている大学時代の先輩に会うためだった。ありがたいことに、先輩のアパートに1週間も滞在させてもらった。

楽しかったコチャバンバン滞在の最終日。その夜、スクレ(ボリビアの憲法上の首都)行きの夜行バスに乗る予定だった。ところが表情を曇らせた先輩から、予期せぬ知らせを受けた。

「いまボリビアで市民ストライキが激化していて、あちこちで道路が封鎖されているみたい。もしかしたら、みくちゃんのバスも影響受けてるかも…」
「えっ!」

急いでバス会社に確認すると、「今日はバスが出ない。明日なら大丈夫」とのこと。

ボリビアではストライキが日常茶飯事で、長ければ1週間以上続くらしい。ついに私も、ボリビア旅の洗礼を受けてしまったか。というわけで、先輩の家に延泊させてもらうことになった。

先輩が作ってくれたウェルカムボードに感動

翌日の20時、先輩とハグをして別れ、バスターミナルに向かった。スクレ行きのバスに乗客が乗り込む様子を確認して、ホッと胸を撫でおろす。

バスに乗り込んで席につき、小腹が空いたのでポテトチップスをつまんでいた。すると周囲から、「2時間くらい歩く…」という不穏なスペイン語の会話が聞こえてきた。

2時間歩く? 隣の席の若いボリビア人女性に、片言のスペイン語で「私たち、ちゃんとスクレに行けるんでしょうか…?」と尋ねると、「私もわからないの」とお姉さん。

そうこうしているうちに、バスは出発してしまった。内心気が気ではなかったが、もう後には引けない。

バスはそこから3時間ほど順調に走り、着実にスクレに近付いていた。「よかった。無事に到着できそう」と安堵し、23時ごろに眠りについた。

午前4時半。ざわざわとした音が聞こえてきて、目が覚めた。嫌な予感がして周囲を見渡すと、バスが停車し、乗客がぞろぞろと降りているではないか!

慌ててGPSで現在地を確認すると、スクレまではまだ何キロもある。隣のお姉さんが、動揺する私の肩をポンポンと軽く叩き、「やっぱり歩くはめになったわね。さぁ、行きましょう」と。まじかーーー!

お姉さんとバスを降りると、何が起きているのかすぐわかった。道路両端に何台もの大型トラックがとまり、中央には大きな岩や大木がゴロゴロと置かれていた。車両の通行を阻んでいるのだ。なにが目的なんだろう……。

行く手を阻むトラック

トラックのおっちゃんたちが焚き火をしながら、「ガハハハ」と大声で笑っている。その様子を恨めしそうに眺めながら、コロコロを引いて、闇に包まれた山道をテクテクと歩き始めた。

バスの乗客は、大きな荷物を背負う人、赤ちゃんを抱く人、小さな子供を連れている人、いろんな人がいた。みんな大変なはずなのに、誰も文句を言わずに歩いていてすごい。

隣の席だったお姉さんと肩を並べ、ぽつり、ぽつりと互いのことを話しながら歩いた。とても優しい方で、スペイン語を少しでも勉強していてよかったと心底感じた。

ふと見上げると、満点の星空。
「あぁ! 流れ星!」

瞬く無数の星々に心を奪われると同時に、「なんか、旅らしい旅をしてるなぁ〜」とおかしくなってきた。

腕時計を見ると、歩き始めてすでに1時間が経過していた。位置情報を確認すると、スクレまではまだまだ遠い。少なくともあと2時間はかかるんじゃない? 先が思いやられるな…と苦笑した。

そのとき、遠くの方から近づいてくる明かりが見えた。車だ! 数台のタクシーが我々の前にとまった。あぁ、神よ…

10ボリ払えば、6人の乗り合いでスクレまで連れて行ってくれるとのこと。お姉さんと一緒にタクシーに乗り込んだ。ありがとうありがとう。

タクシーでスクレまで

空が明るくなってきた。朝がくる。しばらく走っていると、車窓の向こうに、スクレの街が見えてきた。

ルワンダ~タンザニアの国境越え

2016年、11月。東アフリカの内陸国ルワンダの旅を終えた私は、タンザニアまで陸路で国境越えをすることにした。

午前3時、ルワンダの首都キガリの宿を出発して、中央バスターミナルに向かう。定刻通りの3時半にバスは出発し、朝6時にルワンダとタンザニアの国境に到着した。

私がコロコロを引きながら歩いていると、色鮮やかな服をまとった人々が、一斉に私を凝視。アジア人はかなり珍しいみたい。

ルワンダ側の国境

ネットの情報によると、イミグレーションまでは徒歩40分ほどかかるらしい。バイクタクシーもあるが、時間に余裕があるので、のんびり歩いて国境越えをすることにしよう。

イミグレーションまで歩く

すれ違うルワンダ人男性が、「Take care. Have a nice trip!」と笑顔で送り出してくれた。

あぁ、ルワンダ。最初から最後まで大好きな国だった。人も、街も、悲しい歴史も、全てひっくるめて愛おしい。

ルワンダの大地を踏むのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。そんな切なさと寂しさで涙が滲む。一歩一歩踏みしめながら歩いた。

前方に見えてきたのは、ルワンダとタンザニアのあいだを流れるカゲラ川。ナイル川の最上流で、ビクトリア湖に注いでいる。

1994年に勃発した凄惨なルワンダ虐殺では、数万人の難民が川の上に架かる橋を渡り、タンザニアへの逃亡を試みた。だがその多くは殺され、当時カゲラ川には数千の遺体が流れていたんだとか。

カゲラ川

両国を繋ぐ橋を渡っていく。かつて老朽化していた古い橋を現在のものに架け替え、国境施設の整備を支援として引き受けたのが、日本のJICAだった。

日本から遠く離れた異郷の地で、現地のために尽力する方々に対して、尊敬と感謝の思いがやまない。

イミグレーションは建物1階にあった。窓口でトランジットビザを発行してもらう。

手続き自体はシンプルなはずだが、職員のおっちゃんが話好きののんびりさんで、20分近くかかった。途中、おっちゃんによる「スワヒリ語のレッスン」も挟んだ(笑)。

通常は2時間近く待たされると噂のイミグレ発のバスだったが、私は待ち時間ゼロで乗車できた。ラッキー!
(知り合いは4時間待たされたらしい)

いざ、タンザニアへ。

タンザニアは大地も空も広い

国境を抜けると、見渡す限り続く雄大なサバンナが広がっていた。それは、私が思い描いていたタンザニアのイメージそのものだった。

と同時に、一気に道路がデコボコし始めて、車体が上下左右に大きく揺れる。

さぁ、この国では一体どんな景色に出会えるのか。未知の動物が潜んでいるかもしれないサバンナを眺めながら、私はポテトチップスをつまんだ。





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