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同調圧力と多様性の真実

芸術というのは「多様性」なんですよ。


芸術とは何か。

僕は「心地よいもの」だと思います。


「心地よいもの」は人によって違います。


ロックを聴いて「うるさい音楽だなあ」と思う人もいるし

「体が踊ってくるよ」という人もいることでしょう。


芥川賞の小説を読んで、「なんだ、この文体は。もっと真面目にやれ」と

怒鳴る人もいるでしょうし「素晴らしい。新しい感覚だ」と絶賛する人もいることでしょう。


ルノアールの絵画を見て、「輪郭がはっきりしなくてぼやけてる」と

いう人もいるでしょうし「この輪郭の柔らかさが素晴らしい。ふくよかな感じだ」と

賞賛する人もいることでしょう。


僕はクラッシックの中でも「短調」の音楽が好きです。

暗さが「落ち着き」をもたらしてくれます。

ヒップホップのラップの音楽を聞くと体の中に不協和音が流れ

すぐにラジオのスイッチを切るくらい嫌いです。


このように人によって「心地よいもの」は違うので「芸術」が

違うのです。

「芸術」というのは「多様性」なんです。


しかし今は見せかけの「多様性」が幅をきかせています。


映画の主人公を女性にしたり、黒人を主人公にしたり

話の中にジェンダーレスを入れたりすることが「多様性」だと言わんばかりに

メディアは騒いでいますが、それは「多様性」とは言いません。

むしろ余計に差別を助長していると言っても過言ではありません。


そういうことを気にしないことこそ、そしていろんな意見も

「そういうこともあるよね」と認めることこそ「多様性」なのではないでしょうか。

にもかかわらず「マイノリティ」(少数派)こそ正義と言わんばかりに

ハラスメントばやりです。


実はすでに20年以上前に「アメリカは訴訟社会だから日本も今にそうなる」と

言われた時期がありました。

その通りになりました。

大体アメリカで起こったことは20年後に日本で起こります。

今はSNSもありますので、もっとスパンは短いのかもしれません。


「自分と違うもの」を認めないこと。

これがいじめにつながるので「制服」=「同一性」というものが生まれました。

ところが、私服が多くなったのに

今の社会は「同化社会」であり、「同調圧力」の社会です。


ポリ・コレが過剰になりすぎ、「主張の押し付け」になっているのです。


見せかけの「多様性」でなく本物の「多様性」は

相手を攻撃することではないのです。

「そういうこともあるよね」と認めることなのです。

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